静夏堂

個人的考えのまとめ。主に音楽や本や映画とかアートとかについて

すべての男は一人ぼっちである―ぼっち哲学論考

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一人ぼっちのことを「ぼっち」と称し、ここまで広まるようになったのはいつからでしょう。

日常生活だけでなく、ハロウィンやクリスマスなどのイベントごとに、強烈な疎外感と孤立感を味わって、いつしかそれを自虐的に嘆き合う、というのはネット・SNS大普及以降の現象かと思われます。

「ぼっち」的な人物を主人公にした作品が昨今多く見られ、また受けるのは、このためでしょう。

つまり、ぼっちは増加傾向にある。

 

ですが、当然のことながら「ぼっち」というのは昔から存在していました。

藤子不二雄Aの『ブレーキふまずにアクセルふんじゃった』というブラックユーモア短編には、「休日なのに恋人どころか遊ぶ相手もいない惨めな自分を嘆く」という主人公が登場します。これは1970年(昭和45年)発表の作品ですが、現代の読者もこの主人公にシンパシーを抱くはずです。

もっと遡れば、詩人の萩原朔太郎は、孤独感を主題にした作品を多く発表しました。『僕の孤独癖について』というエッセイまで発表しているほどです。

19世紀中盤のロシアでドストエフスキーは、社会と遮断し地下室にひきこもる主人公を『地下室の手記』に描きました。もはやぼっちどころではありません。引きこもりです。

極めつけは、ジャン=ジャック・ルソー。フランス革命だけではなく現代社会の生みの親の一人たる天才の絶筆は、その名も『孤独な散歩者の夢想』。この晩年のルソーは家内と暮らしていたわけで、傍からから見れば「ぼっちじゃないじゃん」となるわけですが、それでも本人は真剣に「孤独で辛いわ……」と嘆きながらこれまでを回想しては散歩し執筆し、息絶えます。

 

いずれにせよ、数百年前だろうが数千年前だろうが、「ぼっち」的な人間が存在したのは間違いありません。ここで言う「ぼっち」とは、その「現象」というよりも、内に秘める「性質・気質」のことを指します。

現象としての「ぼっち」が発生したのは、農耕社会に移ってからでしょうが、狩猟採集の時代にも「なんか孤独で辛いわ…」と嘆いていた我々の先祖もいたはずです。もしかしたら洞窟で暮らしていた頃からも。

非社会的動物・男

さて、「ぼっち率」なる統計を取ったら、圧倒的に男性が多いと思われます。
というのは、男というのは「非社会的な面」を多く持っている生き物だからです。

 

たとえば、女性と比べたら男性はお喋りではありません。

英語圏の研究になりますが、女性が1日に2万語喋るのに対し、男性は7000語と3倍の開きがあったそうです。

日常生活でも「無口の男性は多い」というのを実感されているでしょう。

 

また、女性は「ねー」「わかるー」と共感を示す言葉を(表向きながらも)多く発します。

対して男性は、適当に相槌を打って終わりです。無言の状態が長く続くこともあります。

 

言葉だけでなく、行動にもそれは現れます。

男性諸氏は、「授業中に手紙回しをしている女子たちを、怪訝に眺めていた頃」を思い返してください。

個人的に、あの謎の行動こそ女子オブ女子で、あまりにフェミニン過ぎて鳥肌が立ってしまうこともありました。

ですが今にして考えると、あれこそ女性の「社会的動物性」を現す顕著な例なのです。

授業中という私語厳禁で閉鎖的な空間の中、手紙という原始的な行動を取ってまで他者とコミュニケートするパワーは、男にはありません。

それとトイレに一緒に行ったりとか。

男子も「ついでに一緒に行く」ということはありますが、女子のようにサロンとは化しません。

 

他にも、ファッションに拘る、というのが挙げられます。

男性もある時期を迎えたらオシャレに気を配りますが、それは一時的なものに過ぎません。
つまり「女にモテるため」格好をつけるのです。

ですが、女性は違います。

もちろん「男にモテるため」というのも大きいわけですが、それは付随的なものです。作家の中村うさぎも書いていましたが、その本質は「自己満足と同姓たる女性への承認と願望を得るために装飾する」わけです。

 

男性のオシャレは一時的なもの、と書きましたが、周囲の年上の男性を見ればお分かりでしょう。

結婚し子供もできれば容姿なんかに金をかけている余裕はない、という経済的な面もあります。が、それとは別の意味でファッションに無頓着になってゆきます。

対して女性は「死ぬまで乙女」なので、オシャレをし続けます。そしてこれは社交性と密に関わってきます。

女性の場合、たとえば子育てを終え時間的に余裕が出来た頃、犬でも飼って「お喋りをするために」ドッグランに集ったり、テニスを始めたりします。

目的は、自分と似た境遇の同姓と交流するため。その意味で、犬を散歩させることも、テニスをすることも手段でしかありません。

 

対して男性は往々にして友人が消えてゆきます。新たな友人を作ろうという気力も起きない。なので、いつの間にか「ぼっち」と化している。

その時、拠り所となるのは一人遊びができる「趣味」です。

おじいさんが盆栽いじりをするのは、この辺りに起因するのでしょう。ガーデニングをするおばあさんはいても、盆栽をする姿はお目にかかったことがありません。

 

もちろん中には、おしゃべりが好きで、社交性に優れた男性もいることにはいます。が、女性のその熱量とはベクトルが違うように思えます。

日本において、男性と女性の平均寿命を比較した場合、男性80歳、女性87歳と顕著に差があり、それもこの社交性の有無が関わっているのでしょう。

 

ちなみに個人的な話となりますが、うちの父親が定年した後、庭で盆栽をいじり、ジャージを着て近所を散歩して1日が終わる、というのが容易に想像できます。そして旧友らと年に1,2回ほど飲み会をし、誰々の訃報を話題の種にしみじみと思い出話をする……

まあ別に良いんですけどね。ただ、自分も数十年後にこうなる要素が大いにあり、出来れば別方向に行きたいな、と思ったりもします。まあ難しいでしょうけれど。

自意識過剰型ぼっち

 男女の差異を見ながら、男性が宿命的に「ぼっち性」を有していることを書きました。

ですが、女性は女性なりの「ぼっち」があるでしょう。また、上記にあるものと現代で使われている「ぼっち」とはニュアンスが多少異る部分もあります。

 

私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』(ワタモテ)というマンガがあります。主人公で女子高生の「もこっち」こと黒木智子は、現代的な「ぼっち」です。ただ原作が男性というのもあって、「男性的なぼっち性」が強いのです。

なのでリアル女子ぼっち/喪女の方々からは評判は得られず、このマンガが流行りだした頃「こんなにかわいくねーよ。こんな感じでもっと不細工なんだよ」と自虐的に「リアル喪女」が描かれたことがありました。

まあそれは置いておくとして、もこっちみたいな人間は「自意識過剰型ぼっち」と分類して良いでしょう。

「自分ぼっちだわ……」とマイナス方面で気になるのは、このタイプです。

教室でも職場でもどこでも良いのですが、集団の中で「孤立/孤独感」を異様に気にしてしまう。集団でなく部屋で1人いても、たとえばクリスマスなんかがあったら、騒いでいる連中が妬ましく思える。さらに質が悪いことに、こうったタイプは他人を見下す傾向にあります。それだから「ぼっち」になるのか、「ぼっち」だからそうなるのか。

ちなみに、自分は明らかにこのタイプに当てはまります。

開き直り型ぼっち

最近、こういうタイプが増えているような気がします。「オレ、ぼっちだし」と周囲に公言するのをはばからず、恥ずかしく思っていない。つまり、開き直っている。

キャラで言うと、『物語シリーズ』の阿良々木暦や、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』の比企谷八幡が筆頭でしょう。

阿良々木暦いわく「人間強度が下がるから、友達はいらない(作れない)」、比企谷八幡いわく「ぼっちは平和主義者。無抵抗以前に無接触。超ガンジー」。

ですが、彼らの周りには(癖があるものの)美少女が取り囲み、それなりの学園生活を送っています。

フィクションなのだから当然なのですが、それをメインの受け手たる若年層が読んだり観たりすると、彼らの言動に影響されないわけがありません。

自分には中高生のイトコがいるのですが、彼ら彼女らの話を聞くに、「こういう奴いるいる」とのことで、何というか、時代の移り変わりを感じました。

 

かつては『ハルヒ』のキョン・タイプが主流であったと思います。

キョンは歳のわりには醒めており俯瞰的な物言いと考え方をします。ですが、別にぼっちではありません。

むしろぼっちなのは、涼宮ハルヒの方です。それに振り回されるのがキョン役回りです。

そんな物語を、不幸にも多感な時期に触れてしまい憧れてしまった彼ら彼女らは、キョン的思考をこじらせて虚無的になってゆきます。

そして、いつしかこう悟ります。
「幻想だったんだ……」と。

前述の『ワタモテ』ではこの辺りの心情を非常に上手く表しています。

 

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叶わなかった約束が、腰を降ろす頃に

ぼっちについて書くと、「コミュ症」やら「リア充」といったさらに面倒くさい領域に突入せざるを得なくなってしまうので、このあたりにします。

 

最後に、「ぼっち辛いわ……」という人のために付け足しておきましょう。

上記で分類した「自意識過剰型」すなわち「もこっちタイプ」よりも、「開き直り型」の方が、まだ健全だと思います。なので、もこっち的な人はそっちへ移行する努力をした方が良いです。

この時、粋がって古典的な本を読まない方が身のためです。

ニーチェなどを誤って手にし「オレ超人かも」という思い込みが憑いてしまうと、さらなる不幸に見舞われます。ニーチェあたりの書物は、それまでの系譜文脈を把握しておかないと毒になってしまいますから。

とりあえず、カフカあたりが無難ではないでしょうか。

 

そして個人的には、真島昌利の詩を味わって欲しいところです。

マーシーこと真島昌利は、超絶イケメンでギターも歌も上手いのに、完全に「ぼっち的性質」が備わった人です。ロックにも甲本ヒロトという相方(というより嫁)にも出会わなかったら、どうなっていたのか。

ですが(いやだからこそ)、その詩的世界はもうこの上なく素晴らしい。

文学史的には、萩原朔太郎梶井基次郎といった「ぼっち文学」の系譜に刻まれる詩人とさえ言えます。ここまで美しい詩を書き、歌っている人を自分は他に知りません。

過ぎていく時間の中で ピーターパンにもなれずに

一人ぼっちがこわいから ハンパに成長してきた

なんだかとっても苦しいよ 一人ぼっちでかまわない

キリストを殺したものは そんな僕の罪のせいだ

 

『チェインギャング』

クリスマス・イブの夜にカラオケで1人この『チェインギャング』なんか歌うのは、かけがえのない体験になるのではないでしょうか。モニターの前で「死ね!」と叫んでいるよりは遥かに健全です。

 

爆発衝動が落ち着いてきたら、4枚のソロ作品を聴いて欲しいです。

曲で言えば『関係ねえよパワー』や『HAPPY SONG』あたりが良いと思います。

昼間っからヨッパらって あいつがやって来る

世間体なんてまるで 気にしちゃいない

どんな生き方をしようが それでいいのだ

お楽しみはまだまだ これからじゃないか

 

『HAPPY SONG』

 

……やはり、真島昌利は我々が目指すべき「理想のぼっち像」かな、と書いていて思いました。

「トーフにぶつかって死んじまえ」と叫ぶことも「ガリレオ・ガリレイみたいに鼻で笑う」こともあるけど、「まあ最終的には、楽しかったら良いんじゃん」という感じ。

もちろんその境地に達することは難しいものですが、目指す価値はあると思います。

 

RAW LIFE-Revisited-

RAW LIFE-Revisited-

 
人にはそれぞれ事情がある

人にはそれぞれ事情がある

 

美しいものしか眼中にない人々―風立ちぬ・アバンギャルド夢子・春琴抄

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「興味あるものしか目にしない」という人種がいます。

そのなかでも「美しいものしか眼中にない」という人がいて、自分のような間逆に目がいってしまう人間からしたら羨ましい限りです。

 

それはどんな人なのでしょうか?

人混みの駅で「美しい人」を見た時を考えてみてください。

多くの人は「あの人キレイだな or カワイイな」と反応し、その余韻に浸りながら電車に乗ります。

自分みたいな人種の場合、「キレイだな or カワイイな」までは同じですが、「なんで世の中みんな、ああじゃないんだ!」という意味不明な絶望感と、「というか、なんでオレのものじゃないんだ!」というドロドロとしたエゴイスティックな欲望に苛まれます。

対して「美しいものにしか興味ない人」の場合はどうか。まず美しい人を見た時の行動が違います。すれ違う時、立ち止まって首を90度近く捻り、改札を抜けその人が見えなくなるまで見続けます。それがたとえ時間に追われていたとしても。そしてゆっくりと電車に乗る。そしてまた次の美しい人を探す。他は眼中にない……。

 

そんな人物が出てくる作品を3つ挙げながら、「美しいものにしか眼中にない」について考えてみます。

宮﨑駿がなれなかった宮﨑駿?―『風立ちぬ

まずは『風立ちぬ』の堀越二郎

風立ちぬ』論は多くありますが、個人的には、これは宮﨑駿の自伝もしくは彼自身を限りなく投影した自己告白的要素が強い作品だと思っています。「オレって実はこんな奴なんだよね、美人とかカッコイイものしか興味ないんだよね」というのがビシビシ伝わってくる。と同時に、「美しくないものに興味ないから」という裏声も露骨に聞こえてきます。それをラブストーリーの表向きでエンタメとして全世界に売る……こんな「したたかなこと」はやはり天才にしかできません。

宮﨑自身を投影した作品として『紅の豚』もありますが、これは豚という仮面を被っているとはいえ、嘘をついています。富野由悠季庵野秀明が『紅の豚』公開時の対談で、「カッコつけやがって!」と揶揄していましたし(もっともアニメ監督特有のプロレス発言なんですが)。

風立ちぬ』の堀越二郎と、実在の堀越二郎は全くの別人です。自己投影するにあたり、都合が良かった人物にすぎません。たとえば、タバコを執拗に吸っていますが、実在の堀越二郎は全く吸わなかったといいます。ではなぜあんなにプカスカ吸っているか? それは単に宮﨑駿がヘビースモーカーだからです。

 

では、劇中の堀越二郎と宮﨑駿の違いは何でしょうか。

それは宮﨑駿が「ドロドロと歪んだ目線を持っている」、つまり「人の嫌な所を異常に見てしまう人」だという点です。美しいものにしか興味ないくせに真逆なことも気になる、これが彼を歪めている大きな要素です。なので『風立ちぬ』の堀越二郎は、「宮﨑駿がなれなかった宮﨑駿」なのかな、と思ったりします。

ちなみに彼のインタビュー集などを読めばわかりますが、毒舌どころではありません。富野由悠季のそれと比肩します。『トトロ』や『魔女宅』あたりしか知らない人やママさんが知ったら、ショックを受けることでしょう。いわく「家でトトロばかり観せてる親はキモい」、「今の声優は娼婦の声」、「電車でiPad使ってる奴はそのうち下半身出して手淫しそう」などなど……

もちろんエキセントリックな発言だけではなく、至言も数多くあります。クリエイター系の人は特に必読でしょう。

 

それと話がズレますが、宮﨑駿と富野由悠季の対談の実現を切に願います。両人とも元気ハツラツとしてるとはいえ、もう70を越えてますし。もし公開対談を行ったら東京ドームが満員になるレベルでしょうし、テレビ放送したら高視聴率確実ですし、出版したらベストセラー間違いなしなんですけどね。

 

男性器にしか興味ない、『アバンギャルド夢子

新刊を待ち望んでいる漫画家の1人に、押見修造がいます。『惡の華』が数年前にアニメ化されベストセラーとなり、他にもドラマ化、映画化された作品があります。現在連載中の『ぼくは麻理のなか』は新刊を発売日に買うほど面白いです。

そんな押見先生の初連載が『アバンギャルド夢子』という作品でした。

 

 

全6話で1巻しかないのですが、これは非常に良く描かれています。「芸術家」「天才」という人種がどんな奴らか理解できます。

話は以下のとおり。

――望月夢子は寝ても覚めても「男性器」が頭に浮かんでしまう女子高生。授業中もノートに無意識にソレを描いてしまう。どうにかして本物を見たいが、彼氏を作る気にはならない。画塾でヌードデッサンを、と思うがお金がない。ふと美術部を訪れたら本田正一という冴えない男子がひとり居た。夢子は本田がヌードモデルになってくれるのを引き換えに入部するが……

 

作者があとがき(新装版)で書いているように、あらすじだけ読むと、「エッチ系ギャグマンガなの?」と思ってしまうかもしれません。が、違います。たしかに笑える要素が多く、読者の欲望をかき立ててくれるのですが、もっと奥が深いです。

主人公の夢子は「男性器に執着する」わけですが、それはその「形状」に対してです。つまり、男性器の「造形美」に取り憑かれてしまった。なので、その本来の使用目的に関して、全く興味がない。ゆえに、ヌードモデルとなる本田は男性器が付いている<モノ>にしか映らない。異性のいの字も、夢子にはないのです。それに対して葛藤し、理性と戦う本田……。

2人きりの部屋でヌードモデルになってる本田は限界で、夢子に抱きつこうとするのですが、夢子はカッターを片手に大げさに拒絶。そんな状況に、本田はついにキレてこう叫びます。

何なんだよキミは! ヌードデッサンとか言って変な絵描いて! オレばっか裸なってさ! オレのちんこにしか興味ないのかよ! オレの気持ちはどーなるんだよ! オレはちんこじゃないっ! 人間だ! 男だ!!

涙ながらに絶叫する本田に対して、夢子はポカーン。内心では「なんで泣いてるんだろこの人……何か私、悪いことした?」。

いかに本田を<男性器が付いているモノ>として捉えて無かったかが分かる象徴的なシーンです。で、取り憑かれ系天才と凡人の温度差を、絶妙に描いています。

本田がヌードになるのと引き換えに、夢子もヌードになるわけですが、自身に対しての羞恥心と防衛心はなぜか強く、しまいには泣いてしまいます。それで「私ハダカ見られちゃった……」と一瞬落ち込む……も、すぐに「でも、これでまたちんこが見れるし描けるんだ!」とランラン顔になる。

 

以上のように、夢子は周囲からしたら非常に身勝手で残酷な人物となります。ですが、本人には悪意が微塵もありません。すべては「男性器が見られて、絵を描くため」の行為に過ぎないのだから。

夢子はアウトサイダー・アーティストタイプの人間といえます。描く絵も、草間彌生などを彷彿とさせますしね。

本作の結論(夢子がたどり着いたもの)は、やはりあとがきで作者自身が解説しています。それは「表現のはじまりは、性的衝動=リビドーである。そしてリビドーを抽象へと昇華させるのが芸術だ」というもの。

これは非常に的を得ており、押見修造という作家自身がそれを体現しています。そういった経緯は、『ぼくは麻理のなか』等のあとがきにも描かれており、これ自体を単行本にして欲しいほどです。

目を突くマゾヒスト―『春琴抄』

最後に、谷崎潤一郎による『春琴抄』。ワタクシの数少ない読書経験で言うのもおこがましいのですが、世界に誇るべき日本文学ベスト・ワンはおそらく本作です。

「これこそ究極の純愛!」という声も多く、まあ確かにそうなのですが、本質は、超越的美に基づいて描かれたSM小説、だと思っています。というか、タニジュンの作品はほとんどSMなんですけど。

数度の映画化・舞台化がなされているので、お話をご存知の方も多いでしょう。以下、新潮文庫の裏カバーなみのあらすじ。

――ワガママなお嬢様である春琴は、盲目の美少女。だが三味線の腕は超一流。春琴の世話係で弟子でもある丁稚の佐助は、春琴に意地悪(暴力あり)されては振り回されるものの、献身の限りをつくす。月日は流れ大人になり絶世の美女となった春琴は、ある名家の御曹司に見初められる。が、それを断ってしまう。その後、何者かに熱湯を浴びせられ、顔に大火傷。その時、佐助がとった行動とは……?

 

ネタバレすると、佐助は針で自分の目を突き刺し、失明させます。

なぜか?

大火傷した春琴の顔を見たくないからです。醜い春琴を見るぐらいなら、美しい春琴を永遠に留めるために失明した方が良い……そんな思いに加え、彼の属性たる被虐性も助長して躊躇なく針で自身の目を刺せるのです。

このシーンは非常に有名で、谷崎本人による朗読音源も残っています。先端恐怖症の自分からしたら、ゾクゾクときてキツいのですが、それでもこの筆力にはひれ伏します。

佐助のこの行為を知った春琴は、ひどく感動します。あんなに意地悪しツンツンと佐助に接していたのが嘘のように、デレるわけです。現代のキャラクター属性において、春琴がツンデレの直系的祖との見解があるのは、これ故です。

まあなんだかんだで、佐助が己の欲望のために失明し、春琴と見えない世界で心を通じ合うシーンは、国宝級です。歪んでいるからこそ美しいというか、バロック的というか。

ちなみにこの『春琴抄』、実験的な独特の文体で書かれており、非常に読みづらいです。が、文庫にして100ページほどしかないので未読の方はぜひ。

 

春琴抄 (新潮文庫)

春琴抄 (新潮文庫)

 

 

新潮文庫は毎年夏に名作のカバーを変更するのですが、なんでしょうこれは……。新潮文庫の谷崎作品は梅の絵が完全にマッチしていているのに……。

あ、でも字が大きくなって読みやすくなっていましたよ。

 

shizukado.hatenablog.com

 

カワイイとキレイの違い〜美醜について.1

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「人より秀でた才能を挙げろ」と問われたら、自分は「醜いことを瞬時に発見すること」と応えます。ここでも何度か言及しましたが、自分には人の醜い所(イヤな所やマイナスな所)を察知してしまう能力が天才的にあります。検事になっていたら大出世間違いなしでしょう。

ですが、これは大変呪われた才能です。この能力をもって得した事は特になく(しいて言えば騙されたことが無いぐらい)、9割9分9厘損する、というより「生き辛さ」を人一倍覚えてしまいます。

人の醜い所と書きましたが、その矛先は最終的に自分へと向かいます。たとえば「うっわこの人こんな所あるよキッツ〜」と思ってしまうと同時に、「……なんでオレはこんな所に目がいってしまうのだろうか……ああ何てイヤな奴なんだろう自分は」となる。つまり、自己嫌悪に陥るわけです。

別の見方をすれば、単純に「欲深い」といえます。つまり理想が極度に高い。それを他者にも自分にも押し付けているわけです。

ひところは非道いもので、当時の自分がいま目の前にいたら火のついたタバコを両目に押し付けてしまうでしょう。腹パンどころではありません。

 

そんな反省ができるようになったので、他者への理想の押し付けは、その頃と比べたらマシになったと思っています。最近は自分も大人になってきましたので、人と付き合う時、仮面の被り方をそれなりに身につけました。

が、「自分自身」への理想の押し付けは変わっていません。というより、他者に向かっていた分がこちらに回ってきたようで、以前より増してさえいます。なので常にロッカーを蹴りたいし、壁に頭を連打したいし、ビルの屋上から叫びたい。

まあこれも見方を変えれば、「理想を掴めるよう、とりあえず努力しろ」と前向きに捉えることもできます。もっともこの「自分自身への理想の押し付け」は死ぬまで付いて回り、おそらく墓場までやってきて、「こんな墓場じゃダメだ、安眠できん!」とケチをつけては、下界をさまよい続けることでしょう。

美醜とはなにか?

さて、前置きが長くなりましたが、自分はこういった要因ゆえ「美とは何か?」を常々考えてきました。その反対である「醜」についても同様です。この探求はおそらく自分のライフワークとなるでしょう。

その中から今回は「カワイイ」と「キレイ」およびその差異について自分なりに定義したので、まとめておきます。

カワイイとキレイの違い

いまや国際語となっている「カワイイ」。この身近で曖昧な感覚についての論はたくさんあります。自分もあれこれと考えてきました。そこで芽生えた疑問は「この2つの違いは何か?」というもの。

 

自分の定義によれば、両者とも「基本的に造形美があるもの」に対して反応する「美的感覚」です。

違いは、その対象を見る際、「上から目線」なのか「下から目線」なのかという点。「カワイイ」は前者で、「キレイ」は後者となります。

例えば、猫や赤ん坊なんかを見ると多くの人は「カワイイ」と反応します。それは対象が自分より小さいから=上から目線で見ているからです。

対して、富士山や青い海などを見て「カワイイ」と感じることはまずありません。「キレイ」と口にします。この「キレイ」とは巨大で美しいものに対する「崇拝」に近い感覚です。

つまり、我々は「カワイイ」と思う時には無自覚に見下しており、「キレイ」と思う時はその逆なのです。

「カワイイ」という不思議な感覚

ただ「カワイイ」というのは謎が多く、使用例がたくさんあります。

大小関係なく造形美がなくとも、「カワイイ」と反応する機会が多々みられます。たとえば、ビール腹のハゲ頭のオジサンから「了解〜(^^)」といったメールが来たり、着信音が『となりのトトロ』で「いやこれ娘が勝手にいれちゃってね」と照れながら弁明していたら、不覚にも「カワイイ」と反応してしまうでしょう。

これは「ギャップ萌え」のそれであり、面白い=「笑い」の感覚に近いのです。そしてこの「笑い」というのもまた、見下さないと反応できない感覚であります。

ぶりっ子が嫌われるのは何故か

例示したオジサンは「素」だからカワイイもしくは面白いのですが、これが狙っていたらどうか?

今では死後になりましたが、「ぶりっ子」という言葉があります。「カワイイ娘ぶる」から転じたこの言葉は、80年代にアイドルの革命児たる松田聖子の代名詞となって世間に浸透しました。

ぶりっ子とは、自分をカワイク見せようとする術です。で、ほとんどの場合それが見透かされてしまうため、異性同性関係なく多くの者にとって嫌われます。

なぜか?

「見下せない」からです。先述の通り、「カワイイ」という反応は「見下す」ことによって生まれます。それが、自分をカワイク見せようと計算高く演出している=「上から見ている」と逆の構造になっているため、見透かされた場合「あざとい」と捉えられ嫌われてしまうのです。

「ぶりっ子」に限らず、露骨に計算高いものは煙たがられます。先のオジサンが人気取りのためにやってたらどうでしょう?もしくは「ツンデレ系女子になって男心をワシ掴み!」なる記事を鵜呑みにしてそれをリアルでやってしまう人を前にしたとき、どう反応するでしょう?自分の場合もはや「ムカつく」を通り越して「おお、可哀想に…」と憐憫の情にかられます。

カワイイには2つある

「カワイイ」という感情はまた、「純粋無垢なもの」に対して催します。動物を見て「カワイイ」と思うのは彼らが無垢だからです。「打算的でなく自然体」と人間からしたら見える(中には、コイツ計算高いやつだな、と思ってしまうのもいますが。ウチの猫とか)。

これを「動物的にカワイイ」と言うことができます。もしくは「父性/母性愛的にカワイイ」。

それに対して「性的にカワイイ」というのがあります。男性が美少女に対して抱く「カワイイ」とは、この欲情に起因する「カワイイ」です。そして多くの場合、この「カワイイ」には「加虐性」が内在しています。つまり「あの娘カワイイよね」とは「うっわもうメッチャクチャにしてやりたいよね」の言い換えなのです、極端に言えば。

 

対して女性は「性的にカワイイ」と感じることは無いのか?ジャニーズ系の中性的な男性に対し「カワイイ」と口にする女性は数多いるので、あると言えます。ただ、これは「母性愛的なもの」と「性的なもの」の境界線が曖昧です。自分は男なので推測になりますが、おそらく両方がミックスされたものではないでしょうか。で、「母性愛的なもの」より「性的にカワイイ」の方に重みがあるはず、その場合加虐性が芽生えている可能性が高い……。

 

……このように性で分別するとややこしくなってきます。だったら同性愛者はどうなんだとか、ケモナーはどうするとか、色々疑問も生じてきますし。字数が膨大となって収集がつかなくなるので、とりあえず今回は棚に上げておきます。

カワイイとキレイの対義語

さて、「カワイイ」と「キレイ」の対義語を何でしょうか?

自分が思うに「カワイイ」の反対は「キモい」です。虫を見て「キモい」と感じるのは、自分より姿が小さく、人間から見て醜い造りをしているからです。

では、虫が巨大だったらどう思うか?

それは「コワイ」です。ゴジラモスラが目の前で飛んでいたら、キモイなんて思っている暇はなく、恐怖におびえるはずです。先に富士山を挙げましたが、あの山がオドロオドロしい形をしていたら誰もが「コワイ」と思うでしょう。

小さくて美しいものをキレイと感ずるのはなぜか?

姿が小さく造形美ある対象に「カワイイ」と感じると書きましたが、宝石などに「カワイイ」と思うことはあまりありません。「キレイ」と口にします。それはなぜか?

抽象的な解答になりますが、それは宝石の中に「小宇宙を見ているから」でしょう。富士山を見る時と同じ心境で、宝石を眺めている。つまり崇拝的なものなのです。そしてそれを所有することによって、美と同化したい……そう、この「美への同化欲」が、人類の進化さえをも突き動かして来たのではないのか?

では、なぜ人はそんな同化欲=美への欲求を持っているのでしょう。

利己的な遺伝子司令官

それら根源にあるのはおそらく「性欲」です。

フロイトほど断言するつもりはありませんが、理屈上そこにたどり着きます。で、その欲求の核はもちろん遺伝子です。無意識ではありません。

「美への渇望・同化欲」の根底にあるのは、ドーキンスの言う「利己的な遺伝子」が説明に使えます。「利己的な遺伝子」とは、その個体の生存率と繁殖率を高めることを目的としています。なので、「人間社会」において「美」を入手すれば「自己」をより維持でき次世代へ伝達することができると遺伝子はとらえ、人はその指示に操られて行動している。ゆえに、宝石を求めるのも美人を求めるのも美しい絵や音楽にひたるのも、より生き延びようとする遺伝子が操作しているからだ……とこじつけ臭いですが、ある程度は説明可能ではないでしょうか。

 

……と色々書き散らし収集がつかなくなってきました。ですが記している最中に新たな疑問や発見が湧いてきたので、次回以降続きを書いていきたいと思います。

 

「かわいい」論 (ちくま新書)

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利己的な遺伝子 <増補新装版>

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なぜ自分は戦争モノが好きなのか?─最終兵器彼女と沖縄決戦

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政治的なことを書くのはしばらく(というか、できればずっと)避けようと思っているのですが、戦争モノについて語りたい欲求が強いので、記しておきます。

 

まず自分は「戦争に関すること」が非常に好きです。「好き」というと語弊が生じるので、「興味が強い」と書いた方が適切でしょうか。例に出してしまい畏れ多いのですが、天才魚類学者が「ギョギョッ!」と魚に興味を示すのと同じ感覚です。

かといって軍事学者になれるほどの熱量や知識量があるわけではないし、武器や戦闘機に熱中しプラモやモデルガンを集めるミリオタとも違います。加えて、戦争ゲームなどにも一切手を付けません。

 

では、どういう点で「戦争に関する興味が強い」のか?

2つ考えられます。それは「史実性」と「ドラマ性」。特に後者の比重が高く、この場合フィクションも範囲内となります

具体的に言うと、「戦争に関するドキュメンタリーや映画や本があるとつい夢中になってしまい、全国の戦争資料館や防空壕や戦跡を巡っては想いを馳せてみたり、街を歩いている時"今ここで市街戦が行われたらどうなるんだろう?"と妄想してみたり、眠れぬ夜に"どうすれば先の大戦で日本は勝てたか?"とあれこれ夢想したりする」程度の興味度です。

欲求解消としての戦争モノ

誤解を恐れずに書くと、「戦争に関するもの」に触れる時、自分を含む多くの人々は悲劇性を求め、それを味わっています。「非日常を味わいたい」という欲求の解消、すなわち「娯楽の一形態(カタルシスを得るもの)」として消費している。

たとえば特攻隊のドキュメンタリーを観た時、「ああ、かわいそうに…」と涙ぐむでしょうが、この感覚は現代日本のような退屈で超平和な世の中において、史実/創作問わず「感動系」のそれを味わうのと同じ機能を有している。

それ自体に良いも悪いもありませんし「戦争をエンタメにするな」と言うつもりも毛頭ありません。

 

先述の通り自分は戦争のドラマ性の方に惹かれるため、「戦争モノ」が大好きです。一時は毎日のように戦争ドラマばかり観ていました。

ここで言う戦争ドラマとは、史的なのものからフィクションまでも含みます。なので、『プライベート・ライアン』も『スター・ウォーズ』も『ガンダム』も、基本的に同じものとして扱っています。

では「戦争モノ」に魅了されるキッカケとなった作品は、一体何か?

戦争モノとしての最終兵器彼女

火傷するほど赤面してしまうのですが、自分に「戦争のドラマ性」を強烈に刷り込んだ作品は『最終兵器彼女』です。

最終兵器彼女全7巻 完結セット  (ビッグコミックス)

最終兵器彼女全7巻 完結セット (ビッグコミックス)

 


高橋しんによるこのマンガは、所謂「セカイ系」(←この言葉がまずハズい)を代表する作品です。

話としては「北海道でごく普通に暮らす高校生のちせとシュウジは付き合うことになる。が、世界は気付かぬ内に大戦争が勃発していた。そして、ちせは街を一瞬で消せるほどの武力を持った"最終兵器"であり、それを知っているのは国と軍と敵と恋人であるシュウジのみ。それでも日常は続くが、ちせは頻繁に戦地に赴くようになり"兵器"としての自覚が強くなってゆく。そして、シュウジ達が住む街にも徐々に戦火が迫ってきて……」といった内容。

一見、安っぽい青春恋愛SFマンガと思われてしまうかもしれませんが、中々深みある作品なのです。筋自体は非常にシンプルなのですが、戦争という大きな物語を背景に日常を生きる人物たちの小さな世界とのコントラスト、その日常が徐々に崩壊してゆく過程、それゆえ生まれる悲劇が上手く描かれており、そこから溢れんばかりに滲み出るエモーション、というか……。

簡単に言うと、「10代後半」に読んでしまったら容易くノックアウトされる話なのです。独特の絵柄もあって好き嫌いが出るでしょうが、自分の場合、人格形成に強く影響してしまいました。

だから、超オススメして三日三晩語りたくなる作品であると同時に、「こんなもの若い奴が読むべきでない!」とプラトンの如く喝破したくもなる……このように面倒な奴になってしまいます。

 

作者が偉いなと思うのは、あとがきで「この話はある時期を過ぎると共感できなくなるだろう」と書いている点です。なぜなら「青春・恋愛性」をメインに置いているから。もし良い年して読んで胸が熱くなってしまったら、その人は若い心を有しているか、終末的青春コンプレックスを患っているかのどちらかです。

 

それと、これは作者の意図と反するのですが、自分はこの作品を「恋愛モノ」として読んだ事がありません。「青春戦争モノ」として読むというか、「よく分からない世界規模の大戦争により、日常(学園)生活が少しずつ崩壊しゆく過程」が強烈に切なく、そこに惹かれてしまったのです。とくにアケミが……

 

……なので「ドラマチックで切ない話を作れ」と言われたら、このように「戦争」+「青春」+「全滅オチ(ネタバレのため一応伏せ字。ヒントは『イデオン』)」の3要素を詰め込めば良いのです。どんなに下手に作っても、それらしくなります。

 

ちなみに、アニメ版と映画版(信じられない事に実写)があるのですが、どちらも観る必要は無いと自分は思います。 マンガの凄さをぜひ堪能して頂きたい。

『沖縄決戦』について

史実に基づいた戦争映画として最もインパクトがあったのは、『激動の昭和史 沖縄決戦』です。

戦争映画を撮ることに取り憑かれた鬼才・岡本喜八によるこの作品は、自分が今まで観た全映画のなかでも指折りレベル。沖縄戦を題材にした作品は多々ありますが、本作はそれらと比べてかなり異色なのです。

 

まず、全体的に「俯瞰的で醒めた視線」で描いている点。

沖縄戦は一般市民を巻き込んだ地上戦であり、それが阿鼻叫喚の地獄絵図だったのは誰もが知る事実。本作も史実になるたけ基づき、開戦前からグチャグチャに終わるまでを描き切っています。

それゆえ凄惨なシーンが、150分中120分ぐらいあります。ですが、演出臭さがほとんどしません。これはリアリズムに徹し、淡々とした撮り方をしているからです。だけども、観ている方は「胸が熱くなる」という不思議。

主人公は「沖縄戦」そのもの

この映画では、特定の人物にフォーカスしていません。つまり「主人公」が居ないのです。牛島満中将率いる第32軍もひめゆり学徒隊鉄血勤皇隊も無名の市民も、みなフラットに描かれている。なのであえて言えば、「沖縄戦そのもの」が主人公と言えます。それを、針先で折り紙を折るように組み立てている。

また、戦争モノというとどこかイデオロギー臭が漂いがちですが、この映画ではそれがほぼ皆無なのです。

 

普通このような作り方をすると「たんなる再現ドラマ」になってしまいます。ですが、岡本喜八はそうさせない。れっきとした「映画」に昇華させている。しかも「純粋芸術的」映画ではなく「大衆芸術的」映画、つまりエンターテイメントに仕上げている。

 

たとえば高畑勲の『火垂るの墓』は戦争映画の代名詞になっていますが、あれは「純粋芸術」なのです。説明がしにくいのですが、物語の厚みが極端にあり、「劇のための劇」になって、西洋の古典劇を観ているような感じになります。ついでながら、大島渚の『戦場のメリークリスマス』も似たような要素を含んでいます。前者はアニメという体勢しかもスタジオジブリ制作という表面、後者はビートたけし坂本龍一デビッド・ボウイという非役者(当時)を使っている表面で、一応大衆的にパッケージしている。

だけどその中身は、「作家性=主張・エゴ」が極端に強い。

この「作家性の強弱」が、純粋芸術と大衆芸術を見分ける箇所だと自分は思います。

ちなみにフランシス・コッポラの『地獄の黙示録』は前半は大衆芸術的で後半は純粋芸術的となっているので、分かりやすいです。

 

さて、それではこの『沖縄決戦』において岡本喜八の作家性は無いのか?といったらそうではない。むしろ、ものすごくあります。逆説的ですが、「黒幕に徹する職人であろうとすればするほど、作家性が強くなる」ということがよく起こります。意図的に主張しているわけでも無いのに、「この人が作ったやつだ」とすぐ分かってしまう、つまりオリジナリティが勝手に滲み出て来てしまうのです。詳しくは後述します。

超豪華俳優陣と1971年公開という特異性

『沖縄決戦』が再現ドラマにならない理由の1つに、「出演陣が超一流俳優ばかり」というのがあります。パッと浮かんだだけでも、小林佳樹仲代達矢丹波哲郎川津祐介佐々木勝彦田中邦衛加山雄三…といった面々。今では総出演不可能な役者陣が、強烈な熱量で役を演じているのだから、面白く無いはずが無い。

 

また本作が1971年(昭和46年)公開というのも、特筆すべき点です。

沖縄が本土復帰するのは翌1972年で、この時は復帰直前といえど占領下。「ロケした時は、まだまだ遺骨作業が進んでいなかった」という岡本監督のインタビューを読んだ記憶があります(大半は他所で撮ったでしょうが)。

 

シリアスな作品ながら、時おりユーモラスな雰囲気も漂ったりします。

ひょんなことから高官らの世話をしている散髪屋(田中邦衛)と、陸軍病院で看護に当たる遊女は、創作上の人物でしょうが、軍部と現場の対比になっており、歌舞伎用語で言う「三枚目」の機能をなしています。

加えて、佐藤勝による劇伴。

これらは観る側への潤滑油となっており、むしろ無かったらキツすぎて観ていられません。

ラスト5分に凝縮された作家性

先述通り岡本監督は、沖縄が地獄化する過程を「職人的」に「淡々と」撮ることに徹します。

が、ラスト付近でその「作家性」が炸裂するのです。ネタバレになってしまいますが、以下の通り。

 

日本軍の敗北は決定的となり牛島中将と長参謀長官は自決、これをもって第32軍は解体され「組織的戦闘」は終了。しかし、大半の兵士や民間人はそれを知らない(知ることができない)。なので皆、戦ったり逃げたりするも、蜂の巣のように撃たれたり、戦車に引き千切られたり、腕がないので足を使って手榴弾で自決したり、学徒隊は青酸カリを飲んで『ふるさと』を歌いながら眠りにつき、掃討戦に移った米軍は火炎放射で避難民が居るガマ(壕)を焼き払い中からは絶叫が響く……という地獄絵図が連写的に描かれます。

 

極めつけは、精神に異常をきたしてしまった老婆が墓から出てきて、『唐船ドーイ』という民謡を歌いながら踊り狂うシーンです。墓の中では、父親が泣きながら子供を鎌で殺し、自分の首も切り裂いて黒い血が垂れ落ちる。そこへ近づいてくる米軍の戦車たち。『唐船ドーイ』に手拍子と指笛と掛け声と歌声が加わって音量が上がっては、再び死亡シーンのオンパレード……。

 

ここで、少し入り込んだ見方をしてみましょう。

沖縄のお墓は亀甲墓と呼ばれ大きいことで有名です。その形は子宮を表しており、胎内回帰を意味するとされます。対して、迫り来る米軍の戦車は何か?このシーンでは戦車の主砲の黒光りした先端部分が、強調して撮られています。その形は言わずもがな、陰茎そのもの。

つまり、強姦のメタファーなのです。

「戦争(戦車)に犯される沖縄(亀甲墓)」という構図。

さらに言うと、老婆が踊り狂いながら歌う『唐船ドーイ』という唄は、祝や酒の席での「締め」の曲。エイサーでもトリで流れるので、耳にした事がある人も居るかと思います。なので、2重3重の意味でのエンディング・ソングとなっている。

もっと付け加えると曲名は、「唐(中国)の貿易船が来たぞ」という意味で、ここでは「米の敵船が来たぞ」と読み替えることも可能です。

希望を込めたアオリ

ゆるやかな沖縄音楽が流れ、死体散りばり煙舞う海辺を、子供が1人さまよい歩き、水筒を見つけて飲み干す……というカットでこの映画は終わります。

ここで特質すべき点は、子供が水筒を飲むのを空をバックに「アオリ」で撮っていること。アオリとは下から見上げて撮る技法で、俯瞰の反対です。

この演出から、「地獄の中からこの先、生きてゆかねばならない子供」に希望を託しているのが読み取れます。

これまで俯瞰的に淡々と惨劇を描いていたのを、最後の最後でこのように締めるのは、「お見事」としか言いようがありません。

 

以上のようにラスト5分だけでも、これほど厚みある映画なのです。というか、このラストのために残りの145分があったと言っても、過言ではないでしょう。

八原博通高級参謀について

「主人公が居ない」と書きましたが、仲代達矢演じる八原博通高級参謀は扱いがやや異なります。沖縄戦そのものが主役としたら、牛島司令官と長参謀長官そして八原高級参謀は、準主役的なのです。

八原高級参謀とは牛島満司令官、長勇参謀長官に次ぐナンバー・スリーで、沖縄戦の戦略を練り事実上の指揮を執った人物です。

超秀才でアメリカ含む海外経験豊富だった彼は、徹底的な合理主義者で、映画ではかなり冷たい印象を与えてしまいます(加えて仲代達矢の演技が光りすぎて、異常にカッコ良い)。

牛島と長の自決を見届け、命令に則って八原は脱出します。その後、八原は捕虜になり終戦を迎え復員しました。

そして、1981年に亡くなります。つまり、本作が公開された1971年には、まだ存命中だったわけです。

八原高級参謀がこの映画を観たのかどうか詳しくは分からないのですが、ご子息によると「仲代さんが訪れて来られたそうで、その時の台本が今も手元にある」とのこと(参考 長男が語る『沖縄決戦 高級参謀の手記』著者、八原博通大佐の「戦後」 - 中公文庫プレミアム 編集部だより)

ただ、甚大な被害を出してしまった沖縄に対して終始自責の念にかられ、戦後沖縄に出向くことは一度も無かったそうです。

沖縄決戦 - 高級参謀の手記 (中公文庫プレミアム)

沖縄決戦 - 高級参謀の手記 (中公文庫プレミアム)

 

最近になって、八原高級参謀が記した手記が復刊されました。これは非常に貴重な資料であり、自分も読み進めている所です。

沖縄戦、および八原高級参謀については思うことが沢山あるので、また改めて記したいと思います。

おわりに

本来はここまで書くつもりはありませんでした。『最終兵器彼女』の恥ずかしさを覆い隠すつもりで付け加えた『沖縄決戦』が、思いのほか熱がこもってしまい、書くのが止まらなくなったせいです。

また、評論的なことを書いてしまって段々ムカついて来たのですが、これはあくまで自分の「私感」です。戦争モノに触れた時、哀しみに浸るのも、平和への祈りを抱くのも、自分みたいにあれこれ夢想して想像力を膨らますのも良いでしょう。上記2作は基本的に「激鬱」になるのですが、それにめげず自分なりの解釈を掴み取り、何かと繋げてゆくのが大切です。

デモは手段に過ぎない ─ 国会前デモ見学記

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前回の続きです。

さる7月15日、安保法案が強行採決され、それに反対するデモが国会議事堂前など各所で行われました。ちょうど自分は所用帰りに寄れる所に居たので、霞ヶ関駅で途中下車しその光景を「見学」して来ました。デモに「参加」したつもりは毛頭ありませんので、今後は報道されている抗議者の数を1引かれると良いでしょう。

 

はじめに断っておかねばならない事が2つあります。

1つは、自分はこの安保法案に対して「賛成/反対」のどちら側にも立てないということ。別に中立を気取っているわけでもなく、単に自分の知識力不足ゆえ、判断が未だ出来ていないのに過ぎません。ですが、馬鹿なりに勉強しておりますので、「日和るな!」と糾弾なされないことを願います。もっとも、庶民感覚として「本当に大丈夫なの?」とは思ったりはします。だからといって安易に反対も出来ませんが。


2つ目に、前回にも書いたよう自分は「デモ」というものに違和感を覚えてしまう人間です。その集団性と同調性や、バカの一つ覚えみたいに同じことを何度もコール&レスポンスする光景が、異様に感じてしまう。何より「デモを手段ではなく、目的としている者が多いのではないか?」という疑問が昔からあります。

もちろん、参加者の主張やその意義自体を否定しているわけではありません。むしろ尊重しています。

ともかく、あくまで個人的な印象なので悪しからず。

アル晴レタ日ノコト 魔法以上の…

「見殺しですか天皇陛下」という意味不明の文言を掲げた街宣トレーラーを、外務省から出てきた役人と思わしき人が一瞥しハンカチで汗を拭きながら駅に向かっていったのがまず印象的でした。このトレーラー、調べてみたらちょっと有名らしいですね、ネタとして。実に平和です。「現憲法下では天皇は政治に介入出来ないんですが、それは…」とマジになってはいけません。

 

さて、デモ参加者を眺めていて思ったのは、中年以上の人が多いということ。
「若者も多く参加した」と報道されていましたが、自分が見た限り、50代以上が60%で、40〜30代が25%、20代〜10代が15%といった感じです。

自分が足を運んだ時間帯は最も人が集中したであろう19時〜21時台で、すし詰め状態とはこのことかというほどギュウギュウでした。人の波に飲まれ身動きが取れず、わけも分からなく国会前まで進む自分。

太鼓がリズムをとり「戦!争!反!対!」「安!倍!は!辞!め!ろ〜!」と拡声器を使って叫ばれ、そのレスポンスが響く永田町。おお〜これがデモ・グルーヴか〜、とちょっと感慨深かったです。思えば、永田町というのは日本一「反対!」という言葉が響いた町なのです。

夏の暑さとは違った強烈な熱気が、予想通り感じられました。のぼせやすい人は簡単にトランス状態になるでしょう。というか、実際そうなっている人を多々目撃しました。夏フェス会場じゃないんだけどな、ここは。

一体みんな誰と戦っているんだ

自分が人混みから離れ、周囲を見回していた時のことです。シュプレヒコールの地響きの中、無表情で傍観している自分が気に食わなかったのでしょうか、全共闘世代と思わしきオジサンから「なんであなたは抗議しないんだ」とお小言をいただきました。

「なんでしなくてはならないんだ?」と言い返そうかと思いましたが、戦争は回避せねばならないので「見学してるんです」とニコやかに応えました。「あ、そう」と昭和天皇の口癖で立ち去るオジサン。ここで自分は運動に付随する「同調圧力」の片鱗を味わうことができ、大変勉強になりました。

 

とりあえず最前まで行ってみようと再び人波に飛び込み、1時間ぐらいかけて着いたのですが、そこはデモ隊の最前線。当然、報道記者や警察も他所より多く、ライトアップされた国会議事堂が超現実的に佇んでいて、かなり異様な光景でした。

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通常なら国会前を横断できるのですが、この日は混乱を避けるため封鎖されていました。なので1960年の安保闘争のように包囲は不可能です。

そんな状況に苛立っていたのか、警察に罵詈雑言を吐きちょっとした揉め事を起こす参加者も。その光景を目にして浮かんだ言葉はもちろん「一体みんな誰と戦っているんだ?」。

体制側だったらとりあえず敵なのでしょうか。

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それと、蒸し暑いなか将棋倒しにもなりかねない所に小さい子供を連れて来ている親も居て、その神経を疑いました。「子供たちを戦場に行かせない!」と叫ぶわりには、えらく危険な所に連れて来ているじゃないですか。

 

もっとも、ほとんどの参加者は常識人であり、身体が不自由な人が居たらぎゅうぎゅう詰めでも即座に道を開けたりするなど、配慮ある行動も目立ちました。

誰も居ない皇居前広場

水分不足に陥り、熱中症寸前だった自分はそさくさと抜け出し、どこかで涼もうとふらふらと皇居前広場の方へ向かいました。

「来てよかった。家でジッとしているよりマシよね」みたいな事を口にしながら駅に向かう人々と、タイムを気にしながら一心不乱に走るランナー達がすれ違う光景が印象的でした。

皇居前に近づくにつれ人気が無くなり、二重橋前に着くとそこには皇宮護衛官と自分しか居ない状況。デモの下品な轟音がここまで聞こえ、護衛官の無線には各所の状況が慌ただしく入って来ます。それでも静寂さに包まれたこの地は、俗世と隔たれた別世界でした。振り返ると高層ビルが立ち並び、その異世界感に拍車をかけます。

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頭がクラクラするなか自分は、1945年8月15日に「宮城事件」という玉音放送を阻止しようとしたが失敗し、この二重橋前で自決した2人の軍人のことをふと思い浮かべました。(ちなみにこの事件については、戦争映画の名監督・岡本喜八による『日本のいちばん長い日』(1967年)に描かれています)

デモは手段に過ぎない

とまあこんな感じだったのですが、足を運んで良かったな、とデモ参加者とは違った意味で思います。やはり現場に出向き生で見聞きするのは一級資料となり、大変勉強になります。

「国家前で騒いで何になるんだ」とニヒルに構える人もいますが、自分はそうは思いません。むしろ、有意義です。少なくともネット上で暴言を吐き散らかしているよりは数百倍価値があります。

なので今後も、立法権に対する「いち国民の声」を表明する「手段」として続けて欲しいと思います。そして、もし「目的(今回の場合は廃案)」が達成されたら、さっさと日常に戻ることを肝に銘じた上で。

繰り返しますが、デモや運動といったのは手段に過ぎず、目的ではありません。が、これを取り違えてしまう事が多々あるのです。つまり、デモそれ自体を目的化、ひいては生き甲斐としてしまったりする。それこそ「単に騒ぎたいだけのバカ」に陥ってしまいます。その結果「血に飢えた平和主義者」と化した例が歴史上どれほどいたことか。

 

今回のデモでも、演説やシュプレヒコールで、ネトウヨヘイトスピーチと変わらない耳を塞ぎたくなる暴言が口にされる事が中にはありました。「戦争反対」を主張するわりには随分好戦的で、サイヤ人かなと思いました。

左右関係無く、このように「血に飢えた」運動家が一番やっかいです。彼らは公のためにやっている意識があるかもしれませんが、深入りするとそれはエゴの肥大化であり自涜に過ぎません。

また主張を聞く際、「私」なのか「我々」なのか主語に注意した方が良いです。一人称が複数主格になると、徐々に全体主義的様相を醸し出します。これは歴史上の独裁者が演説で必ず使った技であり、今後も使われる人心掌握術です。

これにかかると大衆は思考停止に陥り、愚民と化します。なぜなら自分で考えないから。

政治に入り込むとバカになりそう、という自分の直感はこの辺りに起因しているのかもしれません。

 

いずれにせよ、「とりあえず戦争に関連するとか反対の声が多いから、反対!」と多数派と情にかられて安易に判断するのは危険です。当然、その逆もまた然り。

「こうでこうでこうなる、だから私はこの法案に反対なんだ」というぐらい自律的に考られて始めて積極的にデモに参加できるのでは無いでしょうか。

そしてそこでも、反対論に固執せず賛成派の意見にも耳を傾け議論するなど、さらに思考を深め、落とし所を探るのが大切だと「自分は」思います。

大衆の反逆 (ちくま学芸文庫)

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大衆への反逆 (文春学藝ライブラリー)

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反逆への熱狂と興醒め─60年代学生運動を通して

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反逆、というのが自分は非常に好きです。
旧字体で叛逆と書きたいほど、胸が熱くなります。

思えば自分は、そんな叛逆や逆襲モノの作品が好きだったし、歴史で言えば独立戦争フランス革命ロシア革命キューバ革命といった事象に強い興味を示してきました。特に二・二六事件六四天安門事件など「叶わなかった系」にはより関心を抱いています。理由は簡単で、「物語性」が強く想像力が刺激されるからです。

 

とはいいつつ、自分は現行の「反〜運動」といったものに一度も参加したことがありません。というより、デモといった政治運動にどこか違和感を持っていることを正直に告白します。ここで勘違いしないで欲しいのは、運動の意義自体を否定しているわけではありません。むしろ、有益なことだと考えています。

忌避する理由の1つに、「運動を目的とした、本質を覆い隠すような人や行動が目立つから」というのがあります。極端な例になりますが、「社会派」と称したアイドルグループが反政府運動を目的としたパフォーマンスを行っているようで、虫酸が走ります。というか、単純に気持ち悪いです(もっとも、実態は某政党や団体が黒幕でその傀儡にすぎないようですが)。

ついでに書くと、どうもアーティスト様という人種は、20世紀に浸透した「芸術家による反権力・反体制」という幻想に未だ目が覚めていないようです。その人の歌を聴きにライブ会場に足を運んでいるのに、急に「原発なくせ!!!」みたいなことを叫ばれたら引きませんか?食事をしにレストランに入ったら、コックから「お待ちどおさま。ちなみに私は憲法改正に反対でねぇ」と急に言われているようなものです。

なので、著名人が「公人」として際立った政治運動をしている姿を見ると、ひどく興醒めします。世界のオーエやサカモトぐらいになるとその人自体が1つの巨大な権力です。本人に自覚は無くとも、その人の意見に付和雷同し、自分で思考することを放棄してしまう人が多いのではないか。

逆に、著名人がいち「私人」としてデモに参加するのは大いに歓迎します。というか、それは本人の自由です。問題は公人私人の線引がどれほどあるかという点でしょう。

60年代学生運動について

さて、この頃は60年代の学生運動新左翼について調べていたりします。

この学生運動について、自分はどこか距離感があるというか冒頭の歴史的な革命事件に抱くような高揚感やシンクロ性が無く、むしろ醒めた目線で見ていました。「当時の意識高い系学生が単に騒ぎたかっただけだろ?造反有理(笑)」みたいな。

この見解は半分当たっており、半分間違っているというのが現時点の判断です。

 

まず学生運動の参加者たちは、戦後生まれのアメリカ文化に浸ったいわゆる団塊の世代であり、彼らに対するマイナスイメージがありました。が、よくよく見ると、時代とその背景(冷戦や公民権運動やサブカルチャーの興隆など)が「大きな物語」として構築されており、そんな状況下におかれたら何かしら熱病にかからないはずがない。それがたまたま反権力的左翼運動であった。

つまり学生運動とは「時代が産んだ必然的な反逆」だったと思います。

 

一方で、この学生運動、「よく分からない」ものだったりします。当事者であった内田樹氏ですら「あの時代と運動は未だによく分からない」と言っています。

が、当事者だからこそよく分かってないのではないか?

なぜならこの「よく分からない」というのは、感情的なものだからです。思春期になると大人に意味なく反抗したくなるものですが、それと同じです。まさしく「理由なき反抗」。

なので「反戦反対!平和を我らに!」と暴力的な行為をしながら叫ぶ、という矛盾が起こる。それを指摘すると「ナンセンス!造反に道理有りで革命無罪!」と反知性主義的主張をする。

 

とはいいつつ、運動参加者の多くはマルクスやレーニンや毛沢東を愛読書(教典)とするインテリ学生たち。加えて当時の大学進学率は10%台とされるので、エリートの意味合いが今日と違います。当時の写真で彼らの顔を見ると、いかにもガリ勉のマジメくんといったオーラが漂ってきます。

そんな今まで親に反抗した事が無かったような者が、あの時あの場所で革命思想なんざに触れたら、マスクを付けヘルメット被り両手にゲバ棒と火炎瓶を持って暴れないはずがありません。「我らの敵は権力!その権化たる帝大を解体せよ!」と言いたくなるのは時間の問題です。

東大安田講堂事件

60年代学生運動の象徴と言えば、もちろん東大安田講堂事件。

権力の頂点たる最高学府のシンボルに立てこもり、機動隊とドンパチが行われたというのは極めて劇的です。60年代学生運動に関して熱が入らないと先述しましたが、これは例外であり、双方にドラマがあります。サムネに使っている画像は、真冬のなか24時間体制で放水を続けスポットライトを当てた安田講堂ですが、美しいことこの上ない。ぶっ壊れていたらさらに綺麗だっただろうなと妄想が捗ります。

 

この安田講堂事件の顛末を当事者側から書いた本があります。

まず警察機動隊側の指揮官だった佐々淳行氏による『東大落城』は名著です。

大事件を呼ぶ男こと佐々淳行氏は東大法学部出のキャリア警察官僚。そんな氏が破壊される母校を舞台に、後輩にあたる全共闘の学生たちと命がけで戦うわけです。しかしこの事件で負傷者は多数出たものの、1人も死亡者を出さなかったのは奇跡的であり、「権力の犬」と揶揄され今より不信感が根強かった警察と機動隊が学生や市民にいかに気を使って事件を沈静化させたかが、精細にそして熱く記述されており必読です。

 

対して籠城していた学生であり、現在は動物学者である島泰三氏による『安田講堂 1968-1969』があります。

安田講堂 1968‐1969 (中公新書)

安田講堂 1968‐1969 (中公新書)

 

彼らがなぜこのような行動に走ったのか、その内在性を理解するのに役立ちます。ただノスタルジーに耽っている点がやや鼻につきます。

 

 

さて今回の記事は、実は前フリです。

「デモに参加したことは一度もない」と書きましたが、「見学」はしました。さる安保法案の強行採決が行われた日に国会前へ行ってきたのです。

そこら辺について書いたのですが長くなったので、下記の記事に譲ります。

Carry that weight ─ 安倍晋三氏への私見

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政治に入り込むとバカになりそう、とかなり前の記事で書きました。これはあくまで個人的な直感にすぎず、政治に関わっている人が無能だということを意味しません。

むしろ最近は政治に関する本を読む機会に恵まれ、そこで学んだことは「冷めたピザ、サメの脳味噌を持つ男、悪代官、変人、宇宙人、売国奴」とどんなに非道いレッテルを貼られようが、「国のため(公のため)に私を捧げていない政治家はいない」ということです。

でないと、官僚による台本を迫真の演技で読み上げたり、四方八方に足を駆け巡っては笑顔を振りまいたり、何かを崇める団体や身体にお絵かきしている人達に挨拶回りをしたり、かつ24時間365日監視され、命も狙われかねない職業など、やってられません。

我々平民は何でもかんでも政治家批判ばかりしてしまいがちですが、この辺りをもう少し考慮して良いはずです。彼らなりの立場があります。

 

とはいいつつ、政治家というのは「国の権力」を自覚・無自覚的に握り、操れる立場にいます。したがって民主主義国家における国民は、その権力を監視せねばならない。なぜなら権力というのは水物であり、時に暴走し歯止めがきかなくなる可能性を孕んでいるから。

 

現下安倍政権に関しては非常に風当たりが悪いです。が、自分はそれよりも、安倍晋三という人自身に関心が向かいます。本来その役に合っていないのに真面目な顔で「強い自分」を演じている姿を見るのが単純にツラい。安倍氏を見ると、胸が痛くなるのと同時に、妙なシンパシーを抱いてしまいます。

 

では、氏はなぜそうまでして似合わない役を演じなくてはならないのか?

それは、彼が日本一のサラブレッド政治家だからです。

複雑な家系の、日本一のサラブレッド政治家として

安倍氏は生まれも育ちも東京ですが、基盤は山口県にあります。そのため氏は「わたくしの地元である山口では」と執拗に口にします。

氏の父親は官房長官から自民党幹事長まで歴任し総理大臣に最も近いとされていた故安倍晋太郎氏です。そして母方の祖父は、岸信介第56・57代内閣総理大臣

また意外と忘れられている事ですが、岸信介の弟は佐藤栄作第61〜63代内閣総理大臣です。兄弟そろって総理大臣となったのは、現在までにこの例のみ。晋三氏からしたら佐藤栄作は大叔父にあたります。

この2人、なぜ実の兄弟なのに性が違うのか?

まず、2人の父である岸秀助は山口県庁につとめていた役人でしたが途中、酒屋業を起こします。そこで酒造権を持っていた妻の佐藤家に婿入りし、ここで一家の姓は佐藤となります。この佐藤家は長州藩士の家系にあたります。

それからしばらくして、次男であった信介は父方の岸家の方に養子に出されます。この義父であり叔父でもある岸信政もまた山口の士族。信介は従妹にあたる良子と結婚し、岸家を継ぐことになります。

そして栄作の方も、佐藤家側の従妹である寛子と婿養子の形で結婚します。つまりこの2人は兄弟揃って総理大臣となっただけでなく、婿養子のいとこ婚を経験しているわけです。

すべてはお家のために。

岸信介夫妻には、長男長女と2人子供が生まれ、長女の洋子が安倍晋太郎の妻となります。つまり、晋三氏の母親です。

 

これだけでも複雑な家系を呈しておりお腹いっぱいですが、さらに続きます。

安倍晋太郎の父は安倍寛という衆議院議員でした。この安倍家もまた代々続く名門。

安倍晋太郎の子供は3人居ます。長男の寛信氏は一般人ですが三菱関係の社長とのことです。次男が晋三氏。そして三男は自民党所属の岸信夫衆議院議員です。安倍性ではなく岸性なのは、岸家を継いでいるからです。歴史は繰り返すというか、子供が居なかった岸家に信夫氏は幼いころ養子に出されているのです。そのため、晋三氏も信夫氏も大人になるまで実の兄弟だとは知らなかったといいます。

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今後、もし信夫氏が総理大臣となることがあったら、3親等以内に総理大臣が4人も居ることになります。

 

さらにさらに付け加えると、安倍氏の縁戚には吉田茂がいます。吉田茂の孫といえば麻生太郎元首相。そして麻生氏の妹は皇族に嫁いでいるので、天皇家とも繋がっていることになります。

 

以上のように、安倍晋三という人がいかに華麗で複雑な家系を持っているか、お分かり頂けたでしょう。が、これだけでは収まらない大きなものがさらにあります。

安倍家=岸家=佐藤家=山口県=長州=日本国

先述の通り、安倍氏は代々築かれてきた山口県を基盤としています。

この山口という地は、総理大臣を最も輩出している都道府県です。初代総理である伊藤博文から現在の安倍晋三まで、8人もいます。(菅直人元首相は東京から出馬していますが、出身は山口なのでこれを含めると9人となります。)

なぜ日本最多の総理輩出県なのか?

理由は簡単で、明治維新の際、長州藩士が薩摩と並んで大活躍したからです。吉田松陰の教えを受けた高杉晋作伊藤博文山縣有朋木戸孝允桂小五郎)や前原一誠久坂玄瑞など、各自が小説や映画の主役になれるほどの人物を輩出しました。

維新後、西南戦争を経て薩摩の勢力が衰えたことにより、長州藩の1人勝ち状態となります。いつからか長州閥と謳われ、このパワーが現在まで脈々と続き、その直系の後継者が安倍氏と言っても過言ではないでしょう。

 

安倍氏はそんな今の日本と自分を創りあげた山口を心底愛しています。氏が尊敬する人物として、祖父の岸信介吉田松陰を挙げているところにもそれは現れています。

 

以上の点をまとめますと、「安倍晋三という人は安倍家を背負っている=岸家を背負っている=佐藤家も背負っている=山口を背負っている=長州を背負っている=日本を背負っている=だから自分は強くあらねばならないのだ」という図式が成り立ちます。これが安倍氏の内在的論理だと推測できます。

この華麗なる家系と山口という偉人輩出県が背景にあるということは、彼にとって光であり、同時に闇だと自分は思います。

岸信介へのレクイエム。そして強くあろうとする故に

「安倍という奴は、なんでこうも強引なことをやろうとしているんだ!小心者のくせに!」といったニュアンスのことを見聞きしますが、これもすべて上記の要因で説明がつくでしょう。

安保法案や憲法改正に関していえば、「孫である自分がやらないで誰がやる」といった想いの方が強く、国民は二の次。「誰が何と言おうとも、退陣に追い込まれた岸信介への供養をオレがするのだ」という意志が明確にあるのでしょう。

 

そして「小心者」つまり「弱い人間」だというのは彼自身が最も知っている。その反動として強くあろうとし、タカ派的姿勢を演じている。

なので安倍氏は、強いものや不良的なものに異常に憧れています。ヤンキー先生こと義家弘介衆議院議員を妙に持ち上げたり、ライトノベリストの百田尚樹氏と共著を出したり、好きな映画が『ゴッド・ファーザー』や『仁義なき戦い』でいずれ「ヤクザ映画を撮ってみたい」と言っていたり…。

 

簡単に言うと、安倍氏は典型的な理想型人種なのです。

なので同族として、自分は氏の気持ちが痛いほど分かります。我が家は名門でもなんでも無いですが、もし自分が安倍氏の立場だったらそのプレッシャーに耐えられず、もっと過激なことをやってしまうしょう。

また氏の人相を見る限り、人格的に悪そうな所が見当たらないのがまたツライ。悪人面とは程遠い、典型的なお人好し日本人というか、生真面目オーラ満載。実際、氏はサラリーマン時代に同僚からよく慕われ真面目に仕事をこなしていたと言います。

が、この生真面目さというのは、他人の意見を聞かないある種の反知性主義に陥り、「これしかない」と信ずると猪突猛進な姿勢を見せる傾向があります。それが国政を操る主であるのは、やはり危険性が高いと思います。

だからこそ「たのむから、もう無理すんなよ…また身体壊すぞ」と、反安倍論とは違ったニュアンスで言ってあげたくなります。

締めとして1曲紹介しておきます。

ビートルズの曲で『Carry that weight』というのがあります。事実上のラストアルバム『Abbey Road』のB面メドレーラスト近くにある曲で、歌詞は以下のごとく。

www.youtube.com

Boy, you're gonna carry that weight
Carry that weight a long time
Boy, you're gonna carry that weight
Carry that weight a long time

I never give you my pillow
I only send you my invitations
And in the middle of the celebrations
I break down

 

少年よ

君は重い荷物を背負って

進まなければならない

これから長い間ずっと

 

僕は君に枕を決してあげないんだ

僕は君に招待状を送るだけなんだ

そしてお祝いの途中で

僕は泣き崩れるんだ


超重い荷物を背負って進まねばならない「Abe Road」は、今後どうなるのでしょうか。

少なくとも、賛成反対云々の感情論的極論で済むほど簡単な話ではなく、もっと深い所を探る必要があります。

 

 

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