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静夏堂

個人的考えのまとめ。主に音楽や本や映画とかアートとかについて

天安門事件とは何だったのか

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1989年というのは、極めて象徴的な年です。

我が国では、1月7日に裕仁天皇崩御し激動の時代「昭和」が終わりました。その後を追うように手塚治虫美空ひばりなどが亡くなり、バブル景気に沸いた大納会日経平均株価では3万8957円という史上最高値を記録。

世界では東欧革命が吹き荒れます。11月にベルリンの壁が崩壊し次々と民主化され、12月にはマルタ会談によって冷戦の終結が宣言されます。

東ドイツが西に戻るのは1990年でソ連が崩壊するのは1991年ですが、事実上この時にはもう巨大な共産社会主義国は終わっていたのです。

ひとつの例外を除いては。

六四天安門事件

唯一の例外は、当然ながら中華人民共和国です。

1989年6月4日、天安門事件が発生。

天安門「革命」とならなかったので、「事件」なのです。

自分はこの事件を知って以来、特別強い関心を抱いてきました。

なぜか?

それはこの事件があまりに劇的で、かつ現代にも影響を強く及ぼしているからです。

事件の顛末を要約してみましょう。

胡耀邦の死

ソ連ゴルバチョフ書記長のペレストロイカなど共産圏で起こっていた様々な背景要因がありますが、この事件の直接の引き金となったのは胡耀邦の死です。

中国共産党党首でもあった胡耀邦民主化を視野に入れたリベラル路線を取りましたが、鄧小平はじめ保守派(長老派)からは反感を買い、失脚させられます。一方で民主化を求める国民からの人気は高かった。

そして1989年の4月に亡くなり、その追悼のため学生を中心に人々が天安門広場に集まります。それがそのまま民主化を求めるデモと化しました。

その数、10万人越え。日を追うごとに増えてゆき、世界最大の広場である天安門前は人数で埋め尽くされます。

5月にゴルバチョフが訪中した後も、落ち着くどころか活発化してゆく。鄧小平はデモの中止を求めるよう、戒厳令を布告します。それでも止まらない。

世界各国のマスコミも現地に集い出します。中国共産党は報道管制を敷きますが、CNN始め有力メディアはリアルタイムで報道し、西側諸国からは支援の声が上がり始めます。

ですが6月に入り、政府の臨界点が突破します。

各地の人民解放軍が北京に集結したのです。

そして6月3日の夜中から4日にかけて、武力弾圧を開始。

戦車と銃弾が、広場に集う学生や市民に向けて無差別に投入された訳です。2ヶ月に及ぶデモは、この1日であっという間に収束させられました。

なのでこの1連の出来事を、六四天安門事件と呼びます。

無名の反逆者

先にこの事件があまりに劇的だと書きましたが、報道管制敷かれる中、メディアが報道した写真や動画がそれを助長します。事件の動画を目にすると、映画以上に映画だと思ってしまうほど。

この事件を最も象徴するのは、戦車の行く手を遮る男、通称「無名の反逆者(Tank Man)」でしょう。

この無名の反逆者の写真はいくつかありますが、有名なのは以下の2つ。


AP通信によるジェフ・ワイドナー撮影のもの。

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マグナム・フォトのスチュアート・フランクリンによるもの。

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近年発見されたのがこちら。地上から別角度で、逃げ惑う市民が印象的です。

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映像ではCNNやBBCなどによって撮影され配信されました。

www.youtube.com


無名とだけあって、未だこの男の正体は不明です。というか、撤退する戦車を止めようとしたり、両手に持っている袋は何なのかと全てが謎。

生存確認には色んな説がありますが、自分はすぐさま消されたと思います。亡命し身元を明かして民主化運動などをしたら、とてつもない影響力を及ぼす可能性が高いからです。

死傷者はどれぐらいか?

こちらも正確な数が把握されておらず未だ謎ですが、数千〜数万人というのが通説です。中国の発表では「事故で300人ぐらい死んだ」ということになっています。が、その程度では済まないのは確かです。天安門広場は50万人も収容できて、実際それぐらいの数が集まり、それを真夜中に無差別発泡し戦車で轢き殺したんだから。

近年は、事件に関わった元人民解放軍の兵士が懺悔の声明を出す者も出てきたりしているようですが、真相はまだまだ闇の中。

デモ指導者・参加者たちのその後

亡命している者もいれば、中国国内で投獄されている者もいます。

2010年にノーベル平和賞を受賞した劉暁波が中でも有名でしょう。

学生指導者では王丹やウーアルカイシ、劉剛などが代表格です。彼らは事件当時、北京大学や北京師範大学の学生でした。両親は官僚や学者などで、生粋のエリート達。

いつの時代も血気盛んな若者が反逆を起こすものですが、この場合も然りです。

事件後、リーダーたる彼らは西側に亡命しその後ハーバード大やコロンビア大などで博士号を取っています。時折来日して講演などもしているようですが、キャピタリズムの中心地での生活が身体に反映されていて、複雑だったりします。

黒歴史であり成功体験でもある

この非人道的な武力弾圧によって、中国は国際社会から徹底的に批判されます。同じ共産国からも非難の声が上がり、西側諸国は経済外交制裁を決行。今でこそGDP第2位の国となりましたが、その頃は困窮も良い所だったので相当な大打撃を受けます。

 

周知の通り現在中国国内では、天安門事件自体が無かったことにされています。つまり黒歴史化されている。ネットで検索出来ないというのは有名な話で、6月4日が近づくとGoogleWikipediaなどに接続規制が行われています。

 

一方で、「成功体験」でもあったという見方も出来ます。

なぜなら、このおかげで一党独裁体制すなわち中華人民共和国という「国家」を維持することが出来たから。

 

この事件を機に、中共は方向転換を図ります。

まず国民の鬱憤を内側ではなく外に向けることに力を入れます。対象は大日本帝国が都合が良い。なので現在の中国における反日感情は、この事件に起因するといえます。

そして景気を徹底的に向上させる。

まさにパンとサーカス

天安門を知れば全てに繋がる

地獄門広場と化した天安門事件から今日で26年経ちます。

激動の年1989年を皆さんはどう過ごされたでしょうか。残念ながら自分はこの世にまだ存在して居ませんでした。ですが、冒頭にも書いたように、1989年を知れば世の中が見えてきます。

 

昨年(2014年)、香港で大規模デモが起こり第2の天安門となるかと危惧されましたが、結局収束しました。自分は「このデモの参加者達のどれぐらいが天安門事件について知っているのだろう」と度々思いました。

というのも、中国本土は当然として、日本国内でもこの事件を知る若者が少ないと感じるからです。下手したら60年代の学生運動すら知らないのも居るでしょう。

自分も勉強中の身なので偉そうなことは言えませんが、革命や大々的な運動などについては重点的に学んでおくべきです。「ペンは剣よりも強し」という言葉がありますが、現実では武力には何も勝てないというのを知るでしょう。それを知った上で、なおペン(=知)で対抗する術を身に付けなくてはならない。

 

日本人にとって天安門事件を知るのは、最も身近な超大国「中国」を考察する素材として最適です。(ただし、ネットなどで調べると超残虐な画像や映像がバンバン出て来るので、ものすごく注意してください。自分もトラウマとなり眠れなかった経験があります)。

 

また天安門を知ったからといって、簡単に反中反共感情を抱くのは愚の骨頂です。

情に踊らされるでなく、もっと掘り下げてみましょう。民衆と国家、私と公、革命と弾圧、知と武力など深い問題と直結するはずです。

 

天安門事件から「08憲章」へ 〔中国民主化のための闘いと希望〕

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『ビリギャル』はビルドゥングスロマン〜感想ネタバレ

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久々に映画感想を。

『ビリギャル』を観ました。結構、面白かったです。

ただし映画としての厚みは、まさしく偏差値30ほど。

 

以下ネタバレ有りの感想を……といっても、タイトルからオチが分かるのでさして気にしなくても良いでしょうが。

 

●実話(全てが実話とは言ってない)

バカ売れしネット界隈では身元割れしてるので説明するまでも無いでしょうが、学年成績ビリ(ただし進学校)のギャル(ただし見た目だけで実際はお嬢様)が、1年で(実際は高2の夏休みから)慶応大学(英語と小論文のみの総合政策学部)に合格した、という話。

 

以上のような隠蔽事情から「題名詐欺だ!」と叫ぶ人が多く、まあ実際そうなので当初は自分も毛嫌いしていたのですが、捉え方次第で印象は変わります。

これは「実話を元にしたフィクション」なのです。

世に出回っている「ノンフィクション」とされるものも、脚色されまくりなのが実情です。都合の悪いことは売上に影響するので、隠すか消す。

そんなのが、まぐれ当たりでミリオンセラーとなり映画化までされてしまうと、このように袋叩きに合うのは当然と言えます。

 

が、先述の通り「フィクション」として観たらどうか?

「挫折と葛藤を経て成長する自己形成物語」である。

すなわち、ビルドゥングスロマンだといえます。

その面からして、「売り方としては小汚いけど、多くの人に読まれるのは悪いことではなく、むしろ健全ではないのか」と思うようになりました。

●別にギャルではない主人公

とは言いつつも、冒頭に書いた通り映画としての厚みが「めちゃうす」です。

でもスラスラ観られて、それなりのカタルシスを得られるのは、話が典型的な成長物語だから。それを題材にしたらどんなに荒く作っても、成長に飢えヤワなエンタメばかり浴びまくっている我々現代人は「感動しました〜!」と反応してしまう。

 

映画に限らず物語媒介を体験する際、自分はキャラクターの役割と動機に注目します。
話の筋なんてのはたかが知れてて、唯一の強みはキャラクターにしかないと考えるからです。登場人物たちの展開次第で、物語の厚みはどうとでもなります。

 

『ビリギャル』の主人公ですが、極めて表面的なキャラだと思いました。

まず彼女が「ギャル」ではない点。見た目がギャル風(名古屋嬢?)にしているに過ぎません。それも夏休み期間中だけで、学校が始まったらちゃんと髪型を元に戻しているし、反抗的な描写がありません。確認出来る唯一の素行不良は、タバコを学校に持って来たことぐらい。

女友達と仲良く遊び、男漁りをするビッチ臭なんてものは皆無で、同じ塾の男の子とピュアな感じになる程度。

何より、最初から勉強熱心で真面目。受験勉強を開始するのも高2の夏からと早い方です。

聖徳太子を「セイトクタコ」と読んだりとウケを狙っていますが、以下のような識者が居るという現実を知っている我々の笑いのレベルは高くなりすぎました。

 

 

誤解を恐れず言うならば「ギャル=頭パーなケバい若い娘」というのが一般常識かと思います。実際、この作品もそんな認識を根底に置いて売っているし、だから売れたと言える。

ただ本物のギャルは、勉強は得意では無いかもしれないけど、直感力と頭の回転が早い者が多いと思います。たまにファミレスなので、いかにもなギャルと隣り合わせになったとき聞き耳を立てると、露骨で下品だが的を射ている発言が多くて度肝を抜かれたりします。

なので、本作品を本物のギャル達が観たら普通の人以上に違和感を抱くのでは無いでしょうか。感想を知りたいです。

●悪役として父と教師

成長物語には悪役、つまり敵が必要です。

この作品では父親と教師が、徹底的な悪役として描かれています。

が、どちらも動機がハッキリしません。

 

父親は素行と成績悪い娘が気に食わずキツく当たり、野球の才能がある長男をプロにしようと必要以上に愛でます。「慶応目指す!」と娘が宣言したら、「お前なんかに出来るはずない!」と毒づく。で、長男が「野球を辞める」と唐突に言い出したら、問答無用で殴り倒す。

露骨で異常です。なぜこんなに父を悪く描くのか?

主人公は母から「お父さんは昔、慶応を目指していた」と聞かされます。つまり、コンプレックスの当て付けだった訳です。言明はありませんでしたが、多分プロ野球選手も目指していたのでしょう。出来そうな子供は贔屓し、可能性のない子供は雑に扱う。

こんな父親が居て良いのか。一応、「実話」じゃないのか?

そんな悪役を担う父も、試験前には娘と和解します(敵が味方になるパターン)。

雪降るなか試験会場まで車で連れてってくれるのですがその時、父親が急停止し車を飛び出します。何の騒ぎだと窓を見たら、積雪で動けなくなっている他所の車の雪かきを手伝ってるではありませんか。それを優しい眼差しで見つめる主人公。「あ、あんなクソ親父でも、良い所あるんだ…」みたいな。

一応ここは父娘の和解シーンなので重要っちゃ重要。ですが、「試験前だろ!早く行けよ!」とツッコまずにはいられませんでした。

 

まあそこら辺まで掘り下げれば、敵から味方になる役回りとしての父親は分かります。

が、もう1人の悪役たる教師は最後まで理解不能でした。

体罰とも捉えかねない描写の連発、それも動機が不明すぎ。今日日、素行が悪いからといって、ここまで露骨な事をする教師は居ないはずです。

実際に相当な確執があって、恨みを晴らすためここまで悪く描いているのか。だから、有名進学校出身である事をあえて隠しているのか…?その教師の名誉の為にも…?

 

構造として見ると、学校の教師をここまで悪役と描いたのは、塾の講師をヒーローとして浮き彫りにするためです。実際、講師はこの作品のもう1人の主人公なのだから。

●話をどこまで盛るか

塾の講師は「褒めて伸ばす」タイプで、それはそれで好感を抱きました。伊藤淳史の演技も光っています。

ただ、試験直前に合格祈願として缶コーヒーをプレゼントするのには理解不能。「これ試験前に飲んで腹下したらギャグなるよなぁ〜」と思って観てたら、実際そうなって唖然としました。

普通に考えて、試験前に合格祈願といえナマ物を渡す塾講師は居ないでしょう。

なので、このエピソードは多分盛っています。文学部失敗の理由に出来るから。

でもそれではあまりに滑稽過ぎる。

話を盛るならばもっと厚みを出すべきです。

●物語の厚みとは

そもそもここで言う「厚み」とは何か?

「厚みがある=様々な解釈(読み方)が可能である=登場人物の役割や行動の動機が深く、物語と絡み合って構造が複雑になる」と個人的に定義してます。

 

この厚みを高めれば高めるほど、「純粋芸術」となります。

そしてアカデミズムな批評の世界では、こういったものが「名作」認定されがちです。

が、名作=面白いとは限りません。むしろ、「ツマラナイ」と思われる方が多いというのが実情。

それに対して、厚みはウスウスだが、すんなり来るプロットを題材に計算された見せ場のある作りをすれば万人に受ける(カタルシスを簡単に得られる)作品、これを「大衆芸術」といいます。つまりエンタメ。『水戸黄門』が代表格です。こと日本人はお涙頂戴な浪花節が好きなので、こちらの方を好みます。

 

これは映画に限らず、小説漫画アニメなど物語媒体全てに当てはまります。

ここで強調したいのは、どちらが良いかではありません。受け手側からしたら、良いも悪いも好みの問題になってきます。

 

芸術云々とか言っても、表現というのは娯楽に過ぎません。

だからといって作り手の甘えが滲み出た作品なんか観たくない。

「ハイここ泣き所ですよ!みんな泣いて!」という計算が見えた時なんかは虫唾が走ります。そして残念ながら、巷にあふれる作品はそんなのばかり。

一方で、かつて松竹ヌーベルヴァーグがやったようなお芸術映画も鼻につく……我ながら面倒臭くて嫌になってきます……。

 

じゃあどんな作品が良いのかというと、「厚みが物凄くあり、かつエンターテイメントに徹しているもの」です。つまり両方の良い所取り。

まあそんなものってまず無いのですが、昨今の邦画でいえば『桐島、部活やめるってよ』と『風立ちぬ』と『劇場版まどか☆マギカ 叛逆の物語』あたりがそのラインを超えていたかなと。他にあれば教えて下さい。

 

●ドラマ化はされるか

そんなこんなで、ツッコミばかり入れてしまいましたが、先の通り成長物語なので、広く観られて良い作品だとは思います。これを観てやる気を出しても良いし、勉強を始めるキッカケになっても良い。

で、恐らくTVドラマ化もされるでしょう。

というか元々、TVドラマ向きな作品です。

制作にTBSが堂々と入っているので、もう企画が進んでいるのでは。

 

 

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堂々と、書店について

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本を買うのはもっぱらAmazon中心になっていますが、週に1回ほどは生書店に足を運ぶようにしています。

書店にゆくメリットは色々あります。

例えば「世の中は今どんな情況なのか」を掴みたかったら、書店にゆくのが最も手っ取り早い。かつ安上がりで真実に近づく手段とさえ言えます。

また大抵の書店というのは、混沌と売り散らかされているように見えて、ものすごく計画的に列挙されています。売るのが目的だから当然ですが、体系的であり決してゴチャゴチャとしていない。情報の洪水に溺れがちな今だからこそ、リアル書店に赴くのはとても有意義だと言えます。

以下、自分がよく行く書店について。

■池袋ジュンク堂・リブロ

自分は東京の城北方面に住んでいるので、身近にある大きな街といえばまず池袋となります。この地には、ジュンク堂とリブロという超巨大書店が隣接しています。

ジュンク堂池袋本店の場合、地下1階から9階までビル丸ごと総面積2千坪という、まさしく本のデパート。最近出来た大阪梅田にある同ジュンク堂に抜かれるまで、日本最大でした。その蔵書数は言及するまでもありませんが、見所としては7階の工学系コーナーの一角に設置されている「著名人による本屋」です。半年ほどその著名人が選出した本が並べられており、2015年5月現在ガンダム安彦良和店長による書店が開催中です。4階にあるカフェでは定期的にトークショーやイベントが行われているのも見もの。

近くのリブロ西武デパートに付属した形で、地下はやや複雑な造りとなっているのですが、ジュンク堂とは一線を画した品のある並び方をしているのが特色です。特に1階の人文書コーナーはかつてニューアカの聖地と呼ばれていたのに相応しい佇まいです。ジュンク堂の物量に圧されて酔ってしまった時などにふらっと入ると、ものすごく落ち着けるかと思います。ただ、残念ながら今年の6月に閉店とのこと。

■神保町新宿丸の内〜本のセレクトショップ

言わずもがな世界一の古書店街、神田神保町

月並みな表現ですが、いち日が簡単に潰れます。いや、いち日どころか一生かけても潰しきれません。「一生ココから出るな」と言われたら自分はこの街を選びます。

古書店のイメージが強いですが新品を扱う店も沢山あり、個人的には三省堂東京堂がお気に入りです。


三省堂はやはりビル丸ごと書店です。4階の一角には画廊があり現代アートが展示販売されていて眺めていて楽しいです。また6階の学習書コーナーにある教科書類は都内屈指の品揃えです。

東京堂はリニューアルしてから非常に現代風なお店となっています。それ以前は全集の品揃えが半端無くそれはそれで好きだったのですが、いかにもな老舗書店といった感じでハードルがありました。改装後は老若男女入りやすい感じとなっています。階段には開店当時の写真が壁紙的に使われていたり、象徴的な出来事(学生運動とか三島事件とか)に関する当時の新聞記事などが張られていたりして、過去と今を繋ぐ演出が施されているのも好ポイント。

 

新宿には紀伊國屋が2つあります。東口のは老舗の本店で、南口のは高島屋と併設されているお店です。個人的には南の方を利用していた時期が長かったので愛着が強いのですが、本店は本店で地下に料理店が並んでて昔ながらの雰囲気も味わえたりするのが良いです。

 

東京駅方面には丸善 丸の内本店八重洲ブックセンターが2強で、立地と顧客層が同じでも趣がほどよく違います。前者は桁違いの洋書量、後者は古地図を売っていたりなど。ちなみに八重洲ブックセンターは、無料でコインロッカーが利用できるので新幹線や長距離バスの待ち時間には助かります。

 

最近は本のセレクトショップというのが増えてます。

六本木のTSUTAYAがその走りらしく雰囲気を重視したお店作りで、間接照明と木の本棚や椅子など温かみを徹底的に演出しては、大概スターバックスみたいなのがくっついてて馬鹿高いカップコーヒーをぶら下げながらオサレ本を読む、というスカし度MAXな所です。

で、実際行ってみると、もうとんでもなく愉しい。「くやしい…!でも…」と反応せざるをえません。恐らく、商店街にあるような個人経営な書店はこういった路線へ向かうしか無いとさえ思います。

大型書店へ行くと数時間があっという間に過ぎてしまい、頭も身体もクタクタになります。なので本ばっかり読んで篭りがちな人には良い運動になるでしょう。椅子を置いている書店も増えてますが、そこはあえて立ち読みで。かつて自分は開店から閉店間近まで丸一日本屋で過ごした事があったのですが、翌日信じられないぐらい筋肉痛になりました。

また時間が許す限り、全てのコーナーを廻る事をオススメします。興味が無い所をあえて行くようにする。その場合、「棚」を俯瞰的に見てはちょっとでもピンと来たのは手に取る。すると何かしら発見があり、楽しみが増えることでしょう。

 

「読書の習慣が身に付かない」という人は、とりあえず書店に通うことです。今日ほど書店が身近にある世はありません。紹介したのは東京のど真ん中にある有名店ばかりですが、今や日本中に巨大なイオンがあってその大きさに比例するような書店が入店しています。また国道を走っていれば、広々とした駐車場がある書店が目に付くはずです。

新刊書店、というか出版業界の惜しい所も記します。

それは再販制度による「価格が変わらない」という点。つまりスーパーのように値下げやセールが出来ないのです。なので状態が悪いのでも定価で売られていたりする。結果、中古で出回るまで買わないというサイクルが生まれます。スマホAmazonの中古価格を見比べながら物色する姿は、もはや当たり前の光景となってしまいました。

再販制度について、日本書籍出版協会による説明があります。

再販制度

Q&Aを読んでいて、非常にムカついてしまいました。なんたる時代錯誤というか殿様商売気質が抜けられないというか…。声明自体が2001年から変わっていないというのがそれを物語っています。

出版不況云々と昔から言っていますが、こういった所から見直されてしかるべきです。それを差し置いて「活字離れ」なんて偉そうなこと、どこの口が言えるのか。

まあともかく、当記事を読んで書店に行きたくなってくれれば幸いです。「有意義な暇潰し」を提供してくれます。

それと『書店ガール』というのがドラマになっているそうですね。原作もドラマも観てないのですが、どんな感じなんでしょう。とりあえずロケ地が『ジュンク堂 吉祥寺店』というのだけは知っています。

BRUTUS特別編集合本・本屋好き (マガジンハウスムック)

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僭越ながら、読書について-後篇

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前回の続きです↓

■文学齧り出し期

本を読み始めた頃、小説はあまり読まなかったと書きましたが、10代中頃から有名なものを背伸びして読んでゆきました。当時熱心に見ていた某個人系書評サイトがあって、そこで評価が高いのを参考にしながら。

日本近現代文学の古典期たる明治のを読もうにも、漱石あたりで既に精一杯でした。鴎外なんかは未だにシンドいです。大正ロマンに気触れてた頃は、谷崎あたりを読んでいたのでドンピシャで、脚フェチを発症してしまいました。またこの時期に読んでた梶井基次郎の一連の作品(すべて『檸檬』に収録)は生涯の1冊となってます。太宰や三島も同列に読んでいて、この2人からは作家という生き物と同族嫌悪というのを学びました。どちらもその生き様や人間性がホント大っ嫌いです。

三島と同時期の作家にして友人でもあった安部公房は、そんな古典主義的文学臭さを払拭させてくれました。急死していなかったら、大江健三郎ではなく彼がノーベル賞を取っていたというのはよく言われます(所詮、ノーベル賞なんてそんなものだというのが逆説的に分かりますね)。今読むと、アバンギャルド臭がどうしてもしますが、とりあえず『砂の女』は原作も映画もどちらも体験して下さい。

現代作家ではとりあえずW村上を。破壊と爆発が好きな自分にとっては龍の方が抜群に相性良く、ほとんど読みました。1番面白くて好きなのは『昭和歌謡大全集』。春樹の方は処女作『風の歌を聴け』と次作の『1973年のピンボール』が割と好きで、『ノルウェイの森』はすぐ売りました。

 

……やはり文学云々を語るのは赤面します。如何せん読んでないモノが多すぎる。実は今でも、小説を読むというのはかなり面倒臭いのです。なぜなら2時間で終わらないから。ただ目下、ドストエフスキー以下のクッソ長ったらしいロシア文学を消化中なので、ちょっとは改善されてゆくかも知れません。『失われた時を求めて』なんざを読了した暁には、どんな景色が見えるのでしょう。

■アンチ読書期

文学や哲学に気触れるも、アホみたいにバカだったので結局なんのモノにもならず、鬱屈とした時期が到来します。「読書なんかして何の役に立つんだ!」と悶々としては、ネットばかりしていたアンチ読書期。

これが落ち着いて「基礎を固め、腰を据えてちゃんと読書しよう」と立ち直ったのは、ここ最近の話です。

そんな時期があったせいか知りませんが、「読書至上主義」な主張には違和感を強く抱きます。ひいては「知性」そのものへも。「読書しない奴はサルである」みたいな啓発本がよくありますが、そんな事を偉そうに言っちゃう時点でその人の頭が猿人から進化していない事を物語っているので、気にすることありません。

自分の場合、本を読むのは知欲を解消するか疑問を解決するか、もっといえば退屈へ抵抗する為のいち手段に過ぎません。なので、頭が良くなるとか人生が豊かになるとかは、自分にとっては二次的なものです。

■ナマ本の方が合理的

前にも書きましたが、ネットや電子書籍について少し記します。

個人的には、Wikipediaを代表にネットからは多くの情報を得てはその恩恵を受けて来ました。ただ、それはあくまでショートカット出来る「情報」に過ぎず「知や教養」になるものでは無い。読むのが学術論文だったりしたら話は別でしょうが、9割方の人間が摂取するものは駄菓子のようなものです。つまり、栄養価が無いに等しい。恐ろしいのはそれらを通して「知」を摂取していると思い込んでいる人が多いということです。結果「ネットde真実」みたいな事を口にしては、失笑を買う。この頃はGoogleで検索してもまとめサイトがトップに躍り出るどころかトピックにすら取り上げられていて、その限界を実感します。なのでこの頃の自分は、精神衛生上的にも「ネット断ち」を意識的に行っています。

 

電子書籍についてですが自分の場合、iPhoneKindleアプリが入っていて、その中で電子化しかされてないものをたまに読むぐらいの使用度です。なので、ほぼ馴染んでないに等しい。

電子書籍より紙の本で読む事が多いのは、単に「現物で買った方が安上がり」だからです。Kindle版より中古で買った方が安いし、BOOK OFFゆけば100円で手に入る事もある。自分は利用することはまず無いのですが、図書館で借りれば実質タダです。

ナマ本の場合、貸し借りも出来るし要らなくなったら売る事もできます。何より「モノ」として自分の生活空間の一端を担う(もしくは侵食)される事によって、読む意識が刺激される。ビブロフィリア(愛書家)ではありませんが、現時点では結局モノの本の方が合理的なのです。

また「ディスプレイ越しの2次元を媒介とした情報より、3次元の本の方が記憶に定着する」という報告も聞きます。信憑性がどれ程あるかは分かりませんが、少なくとも眼の負担度から言えば「紙の方が優しい」なのは経験上確かです。

まあ書かれている事は一緒なので、今後は好みの問題となってくるでしょう。

■ブックリスト本のすゝめ

ザッと読書について書きましたが、タイトル通り読書体験がスズメな涙ほどしかないのでホント気兼ねします。(一方で、そんな感じを覚える事自体、知や教養に対して屈服している様で自分にムカついたりもする…)

そんな自分が言うのも何ですが「読書したいけど、何を読んだら良いか分からない」という人がよく居て、そんな人にはとりあえず「読書家が書いたブックリスト本や読書法本」を読むことを薦めています。

速読術なんて意味ないと前回書きましたが、ブックリスト本や読書法系は色々参考になります。その人の遍歴や読み方が知れて面白く、推薦本がリストアップされていて道標になる。何と言っても、読書欲が萎えた時などは効果抜群です。

良いブックリストは当然ながら書評が優れています。有名所では松岡正剛の千夜千冊。これを纏めたのを10万の価格で書籍化している事からも、自信と評価のほどが伺えるでしょう。

松岡正剛千夜千冊

松岡正剛千夜千冊

 

個人的にオススメなのは、小飼弾の『新書がベスト』や宮崎哲弥の『新書365冊』、佐藤優の『読書の技法』功利主義者の読書術 』等々。『立花隆の書棚』や『打ちのめされるようなすごい本 』も良いです。また、雑誌の読書特集も著名人の推薦本等が知れてかなり参考になります。

 

逆に「読みたいのがあり過ぎて、読む時間が無い!」という人は、目的意識を定め読むべき本の優先順位をリストアップすれば良いと思います。読書好きの人はそれがあまりに習慣となり過ぎて、場当たり的な読み方をしがちです。なので、あえて機械的に読む。「読む」というより吟味咀嚼し、消化する。それが血肉となれば、実生活でも何らかの形になって現れるでしょうし、今までとは違った読書体験を味わえるかと思います。

 

書店や出版社や装丁や形態についても書かなければ気が済まないので、これは次回記します。

 

僭越ながら、読書について-前篇

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読書家になったつもりは一度もありません。

自分なんてのが読書家なんてとてもとても……と手の平を斜め上に出しては伏し目がちに言いたくなります。一方で「読書家やインテリなんかに、死んでもならんぞ」という変な反発心もあります。もはや絶滅しているであろう文学青年みたいなのが大嫌いだし、「本読んでは講釈垂れてねえで、現場へゆけ!」と主にアカデミズムの知識人達に言いたくなるし、子供が引きこもって本ばっかり読んでいたら「外で遊んで学んで来い!本は寝る前にでも読め!」と一喝してしまうでしょう。

 

と言いつつも、我が家の本棚4つはギュウギュウだし、部屋中にブックタワーが乱立しており、この文章を書いている机上には数冊散らばっている……つまり本と触れ合う時間が多いというのは事実。

実際、自分は本をどれぐらい読んでいるのか?物忘れが激しく強迫障的メモ魔なので、読了すると日付と感想をデータとして残しており、数値化が可能です。

この1年で平均すると、月10数冊というのが相場でした。30近くの月もありますが、それは主にフラットな読みやすいのを連読していた時です。逆に2,3冊の時もあって、これは読まれることを拒否したかのようなクッソ面倒くさい文章で書かれたのをノート取りながら熟読していたか、単に意欲低下していたかのどちらかです。

以上のように、数で見るととてもじゃないが読書家なんて言えた口では無い。それでも食事のように習慣化され消費しているので、「まあまあ読んでいる方」かと思います。

では、なぜ本なんか読んでいるのか?

読書体験を軽く振り返りたいと思います。

最も古い読書は何だったか。

それは忘れもしない、母が寝る前に読み聞かせてくれた絵本や童話などです。

我が両親は別に読書家教養人でも何でも無く、郊外に住む典型的な中産階級の勤め人。教育熱心では無いが習い事など子供がやりたければやらす、といった感じでした。なので「本を読め」とか「勉強しろ」の類は一度も言われた事がありません。

そんな放任主義的な家庭でしたが、幼児向けの学習オモチャが妙に充実していました。自分が初めての子供だったというのもあってか、情操教育の意識が一応あったのでしょう。

その中の1つに大量の絵本があった。それを母が就寝前に読み聞かせる。

何かアメリカのホームドラマにありそうな光景ですが、ともかくこの体験は読書だけでなくその後の自分に間違いなくプラスな影響を与えました。(ちなみに母とはその後、内戦並に衝突を繰り返したりしましたが、この恩は終生忘れることはありません)

 

その時読み聞かされた絵本ですが、何を読んだか大半は忘れています。

だけど、今でも鮮明に思い出されるのが『はじめてのおつかい』。

はじめてのおつかい(こどものとも傑作集)

はじめてのおつかい(こどものとも傑作集)

 

最近書店で超久しぶりに本書を手にしました。とても不思議な感じがしました。初版は1977年なので、作中の風景は完全に昭和。それを自分が幼少期に読んでいたのは90年代初頭。そして20年後の今、振り返って読んで見た訳ですが、その世界観を通して味わう感覚が当時と変わらず同じなのです。大人になったら読み方が変わるよく言いますが違いました。ノスタルジーの類でも無い。そんなの通り越した、もっと奥深いものに触れた感じがしたのです。

さて、そんな原体験からして読書少年になったのかというと、そうではありません。図工作やゲームに夢中で、『エルマーのぼうけん』のセットを買って貰ったのが記憶にあるぐらいです。

自発的に書店に出向くようになったのは10歳頃で、きっかけは「マンガを描こう」とふと思い立ったから。マンガを描く方法系の本を求めては書店に行き、マンガを描く為にはデッサン力が必要だなと芸術コーナーをうろつき、物語を作らねばならないなと文芸コーナーを廻る…といった連鎖があっという間に出来ていました。

結局マンガはモノになりませんでした。が、この辺りの時期が自分の読書本屋遍歴の直接的ルーツとなり、またその後の人生をも決定付けたターニングポイントとなりました。

これらの影響で芸術系の世界にはすっかり入り込みましたが、小説はあまり読みませんでした。名作マンガを読むのでお腹一杯だったというか、それよりエッセイの方が好きで特に五木寛之あたりをよく読んでいました。

 

積ん読されてゆく書物を前にして「本を早く読む方法は無いか?効率よく勉強出来る方法は無いか?」と探り始めたのもこの時期です。小中学生の分際でビジネス書コーナーをうろついては、自己啓発書を読み「オレって天才どころか、超人になれるかも!」と得意になったりしてました。

今にして思えば、このインスタントな優越感を早くに味わっておいて良かったです。「自己啓発書なんて小指の爪先ほどしか役に立たない!」というのが半笑いで叫べるほど体得できたから(あくまで自分の場合は、ですが)。これらは、やる気がどうしても出ない時に精力剤を飲むようプラシーボにかかりたい時だけ読めば良いのです。

 

速読術に関しては、相変わらず平積みで売られているので少し記します。

自分が知る限り、巷に出回っているほとんどの速読術とは、「天才アスリートが書いたスポーツ術」です。つまり、常人に出来るものではない。映像記憶を身に付けるとか動体視力を鍛えるとか色々ありますが、そんな事している暇あるなら普通に読書した方がよっぽど早く読めるようになります。早く走りたいなら、走り込みをするしかない。

ただ多くの人は、走り込み自体を「テクニカル」にやりたいという欲望を抱いている。

経験上、唯一確証性がある速読術があります。それは「自分でも手が届きそうなちょっと難し目な名著を熟読する」こと。結果、いま売れている大半の本は「相対的に」早く、そして簡単に読めるようになります。

「何事も急がば回れで、コツコツ地道にやるのが結局のところ速道なんだ」というのを肉体的に実感したのはここ最近で、かつ実践中の身だからあまり偉そうに言えませんが。

 

長くなって来たので、後篇へ↓

 

本を読む本 (講談社学術文庫)

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平和学習は役に立ったか?ー思考止揚!

 

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和学習というのを、戦後生まれの人は皆受けているかと思います。

例に漏れず自分も小学生の時、平和資料館や防空壕を廻ったり調べたことを発表するなど、かなりの時間が割かれていたのを思い出します。戦時中の写真や映像、体験者の話などを通してその悲惨さを身近に感じたりしました。

 

──そう「感じたり」はしました。が、なんでそんな情況になったのか?なんで戦争になったか?と本質的な面で「考えたり」はしなかったし、出来なかった。

これは非常にもったいない事だな、と今にして思います。

 

「平和学習は、日教組による自虐史観GHQ憲法を植え付けているに過ぎない!」とネット上で散見されるような事を言うつもりは毛頭ありません。「日本はかつてアジア諸国に非道いことをしたんだ!」というニュアンスが混じった事を口にするような教師が中には居たりしましたが、先の大戦を身近にし歴史の延長上に今生きているのだというのを実感する機会としての平和学習は有意義です。

が、先述の通り、「考える」事をもっと提供すべきでは無かったのか?「思考を鍛える」題材としてどんな教科よりも最適だったのではないか?

 

自分の経験上、平和学習というのは戦時下での「悲惨・悲劇性」にクローズアップしすぎというか、そういった面しか教えられなかった気がします。悲劇性をダシに感情面に焦点を当てたそれは、「戦争=最低最悪、平和=最上最高」という単純な二元論を刷り込み、思考停止を誘発します。

古来より宗教の世界では聖戦というのがあるし、日本中を焦土と化したアメリカでは悪者たる枢軸国に勝利したので第二次大戦は「Good War(よい戦争)」という事になっています。つまり、国や文化によって解釈が多種多様であり、戦争の善悪を一概に定義することなど不可能なのです。

にも関わらず、その凄惨さを知らされて言葉を失っている年端もいかない者達に、安直な平和至上主義を教えるのは、視野狭窄にし脳をフリーズさせ逆に非常に危険であるとさえ思います。そもそも、思考停止が国中を覆ったことが先の大戦の一因になったとも言えるのでは無いのか。

 

平和学習とは名ばかりで「平和学」となっていません。これらは天地ほどの差があり、後者は学問体系として「なぜ戦争が起こるのか?どうすれば平和を達成させられるか?」と模索し、「歴史」を体得させ得るものです。戦争といえど国や人それぞれのドラマがある。それは悲劇的の一言で片付けられるものではありません。

再三になりますが、せっかく過去の戦争に触れられる機会が多い中で、思考させず「戦争は悲劇で平和最高。以上」で終わらせるというのは非常にもったいない事だと思います。

この頃、小中高生が所謂「ネトウヨ化」していると聞きます。ゲーム以上に嵌りやすく、知的水準乏しくも面白可笑しい情報(というかネタ)がお菓子の山のごとく溢れるネットがこんなに身近にある今、当然の成り行きです。現行のままではこれからさらに増加するでしょう。

皮肉なことですが、先の平和学習で「考えること」を提供しなかったのが、このような情況を産んだ土壌の1つでは無いかと推測します。戦争平和を知ることは、国を知り民族を知ることに直結します。こと近代の戦争はナショナリズムや人種のぶつかり合いな訳で、それを通して「戦争とは何か?国家とは民族とは?生とは死とは?というか、人間とは?」と様々な事を考える種となり、我々は考える藁になり得る。

 

「子供ですらネトウヨ化か、嘆かわしい」と言うのは簡単ですが、そんな事を口にする大人こそ思考停止そのもの。むしろ子供だからこそ極端な思想信条に走りやすい。なので当然ながら、こうなっているのも大人の責任であります。

子供というのは、大人の後ろ姿を想像を絶するほど観ており、恐ろしいほどです。

ネット社会を例にすれば、先のネトウヨ的言説を流布しているのは良い歳した者たちです。一方で、鬼の首を取ったような安倍政権批判や突飛な反原発を訴える駄菓子のような言説をSNS等を通して広めているのも、また変わらぬ輩たち。

彼らは一様に「歳だけ取った、安全地帯でヌクヌクと生息している生き物」と見て良いです。考えることをいつの間にか放棄し、その自覚すらない腐敗した有機物。そこから出た有毒ガスをまき散らしている。

そんな玉石混淆(いや石石石ばっかりで極めて稀に玉)のネット世界で、リテラシーを高めるのは非常に困難です。それがスポンジのように吸収する子供が入ったら言わずもがな。そこで現場の重要性が説かれるわけですが、先述の平和学習の如くという情況…。

…とまあ、嘆いてばかりでは仕方ありません。考えて、落とし所を探ってみましょう。

とりあえず、愛とロマンだけでは世界は救えません。

一方で、理性だけでも太刀打ち出来ない。

「インスタントな情報ではない血肉となる知と情緒を摂取し、それらを元に思考して止揚する意識を死ぬまで持ち続けるのが、戦争はじめ面倒なことに対処する唯一の手段である」というのが今の所の自分の結論です。

知ることも考えることも、やろうと思えばいつでもどこでも出来ます。

ぼぉーとしている時でも、科学者が新発見するが如く、落とし所や名案が浮かぶかも知れませんしね。

 

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戦争を知るための平和学入門 (ちくまプリマーブックス)

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私撰高層建築物集・帝都TOKYO篇

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物はお好きですか?自分は大好きです。

建物にも色々ありますが、自分が特に惹かれるのは高層建築です。

最初に「建物としての建物」を意識し印象に残ったのが、高層ビルでした。横浜の幼稚園生だった時、遠足か何かで行ったみなとみらいで眺めた超高層ビル群。それが原体験となり刷り込まれているのかも知れません。

以下、日本一高層建築がある東京に絞り、個人的に印象が強いものについて記します。

東京タワー

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建物を見る時、自分は3つの視点を持ちます。それはデザイン性、文脈、そして構造。

デザイン性つまり見た目の印象は、誰もが抱くかと思います。文脈というのは、建てられた時代背景や誰が設計したかを絡めてみる。構造面は、何階建てでどんな素材を使っているかとちょっと専門的に見る。

東京タワーというのは、これらの要素を読み解くのに最適です。

まず見た目ですが、純粋にキレイでカッコイイ。富士山を目にした時と似た高揚感を覚えます。たまに浜松町駅あたりを通った時など電車の窓から見えたりしたら「東京に来た!」という感じでワクワクします。

間近で眺めると、これでもかと言わんばかりにぐにゃりと広げた塔脚とその鉄の絡み合いに吸い込まれます。これはスカイツリーでは味わえません。

文脈と構造面で見ると、まず鉄材が朝鮮戦争後にスクラップされた戦車が使われているというのは有名です(もちろん全てで無く特別展望台より上の一部分)。

そしてなにより、戦後復興と繁栄に願いを込められた最も象徴的な建造物であるということ。その願いが叶ってゆくさまを、電波で届けていった。

ちなみに、東京タワーといえば赤のイメージですが、塗装が定期的に行われています。なので、その時期によって色合いが違う。中でも大展望台の外壁は今では白ですが、かつては黄赤色でした。その当時の写真を見る限り、個人的にはそっちの方が好きです。

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西新宿超高層ビル

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10年近く前、自分は西新宿界隈に住んでいた時期があります。その頃の複雑でレモンを生で齧ったような記憶が重なったりして、非常に思い入れ深い地域の1つだったりします。

この辺りは不思議な所で、ビル街からちょっと離れれば小ぢんまりとした古くからの民家が密集しています。琥珀色した公園や小中学校がポツリポツリとあり、近くではコンクリートで護岸された神田川が流れ、ふと見上げれば灰色の超高層ビル達が空を埋めつくしている…そんな光景。

これらビル郡が出来る前は淀橋浄水場というのが一帯を覆っていました。それが移転し、1971年に京王プラザホテル(178m地上47階、当時日本一の高さ)が登場。これを機に、怒涛の勢いで建てまくります。

ビル好きにとってはメッカに近い西新宿なので、ベストを出すのが難しいです。京王プラザ〜東京都庁までの、つまり1970年代〜90年までに出来たのは大体好きです。でもあえて選出するならば、野村ビル(210m 50階 1978年)かなぁ。

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住友、三井、センターなどの同時期建造物と比べて、スマートでスラリとした印象があります。多分、窓ガラスが鮮やかな青緑色で、サンドイッチみたいに真ん中が圧縮され自然に突起しているように見えるデザインだからだと思います。

堂々とした風格と構造面では、KDDIビル(164m32階1971年)を選びます。

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通信網の中枢だけあって、強度は国内最強レベルだろうというのが素人目でも分かります。下層分に窓が無いのも面白い。

ああ、でもやはりセンチュリーハイアット(今はハイアットリージェンシーか)と第一生命ビルのツイン線対称で煉瓦色で周りと比べて背が低いのも良いし、ヒルトンの風に吹かれた波みたいな感じも良いし、NSビルのレインボー感も良いし、何だかんだで「バブルの塔」東京都庁もそそる…。とまあ、やはりキリが無くなります。

この界隈は相変わらず開発され続けているそうで、未来予想図を実現し越えてしまった今後、どう様変わりするんでしょう。相変わらずゴチャゴチャな渋谷よりは期待しています。

 

六本木ヒルズ森タワー

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2000年代から現代に至るまでを最も象徴する建物といったらこれ。

地上げ蔓延るバブル期に計画され小泉竹中構造改革まっただ中の2003年に完成した、IT長者を代表とする銀箔の宮殿。

これらを背景に本ビルを読み解く上でのキーは、53階の森美術館にあります。

数千〜数億する美術品達が、超企業が各階に居座る天下の六本木のビルの頂点に散らばっている。「美しい」とされるものが最上層にある。つまり、世の中は平等ではなくピラミッド構造で出来ている格差が絶対にある、というのを思い知らされるのです。

(ちなみに、ビル最上層階にある美術館として西新宿損保ジャパンビルの東郷青児記念美術館があります。かのゴッホのひまわりを58億で買った絵がある所です。「東郷青児記念」と称しているものの、実質そのゴッホを拝むがためにあるような所だったりします。)

 

そんな世の中を直に反映した六本木ヒルズですが、建物としては非常に好きです。00年代以降に建てられたビルでは最も好きと言って良い。ライトアップ時なんか眺めるとディズニーランドに来たような気分になります。

高さは238mで近くのミッドタウンよりは10mほど低いですが、巨大感はこっちの方があります。目の前で眺めると「ぶっといなぁ〜」と毎回思ってしまいます。

書いていて、花の都大東京からTOKYOへと横文字に様変わりするのを反映した高層建築紹介になってしまいました。帝都と銘打っていますが、単に言いたかっただけです。いずれ本当の帝都時代だった時に出来た名建築についても記したいと思います。日銀本店とか三井本館とか三越高島屋とか(日本橋界隈ばかりだ)。


自分にとっては高層建築とは「カッコよくて」「キレイで」「スゴい」ものでしかありません。で、そんなのを眺めていると無性に「ぶっ壊したい!」という破壊欲求に駆られてしまいます。不謹慎に思われると困るのですが、ロマンチシズムに呪われ夢想癖のある人間は十中八九、頭の中で壊滅する様子を鮮明に描いては1人興奮しています。これは表現者に顕著であり、そうしないと金閣寺ゴジラウルトラマンエヴァも作れません。

もちろん、テロや震災を経てその惨状を知っているので、現実ではいつまでも変わらぬ光景を眺めていたいとは強く思いますが。

 

身近でこれらを眺められた際の、ちょっとした参考になれば幸いです。

 

世界に誇れる東京のビル100

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