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静夏堂

個人的考えのまとめ。主に音楽や本や映画とかアートとかについて

想像力の創造と散歩と

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                               (phot by szk)

リエイティブ、という言葉が頻繁に目につくようになって久しいです。
クリエイティブ、クリエイターといったモノに、これほどまで注目を集める世の中というのは、今まで無かったのではないでしょうか。

こうなった背景の要因には、Web2.0以降の流れたる、Youtubeニコニコ動画などの動画サービス、pixivやFacebook等のSNSの興隆がある、というのは言うまでもありません。また、ビジネス面ではウェブデザインおよび広告素材を指す言葉として使われています。
これはつまり、今まで受け手であった多くの人たちが、ドッと外へ何かを発信するようになった、すなわち能動的になったと言えます。
カンブリア爆発によって数億の生物が現れたように、情報爆発(革命)により無数の発信者を生み、そして近代革命のごとく今まで特権的であった公への発表の門口が、隔てなく広がった。
この現象はとても喜ばしいことで、正にいま自分がこうやって文章を書き、発表できる場を与えられている享受者の一人である、という事からも実感します。

さて、そこで冒頭のクリエイティブ云々というのが声高に叫ばれたりしているのですが、その言葉の流布と使われ方に、どこか違和感を覚えたりもします。
というのは、スノッブ臭が漂って来るというか、浅はかすぎではないのか。同時に、表面的な押付けをされその言葉に踊らされている人が多いのでは、と感じてしまうのです。
「クリエイティブ性を高める」、「クリエイティブな人材になろう」などといった文句の散乱。こういったのは、時に威圧的であり、それに抗う術を持っていない人々の劣等感を刺激しているようで、あまり良い気持ちがしません。(これらの事は、語学や美容といった、いわゆるコンプレックス産業にも通底しています)

では、そもそもクリエイティブとは何なのか。

 辞書によれば、1「想像力のある,創造的な」、2「~を生み出す」といった形容詞で、名詞としては「創造的な人」というニュアンスで使われるそうです。
語源をたどれば、ラテン語のcreare、すなわち「生む、育む」であり、現代とほぼ変わりありません。

してみれば私達は、何かを想像し生み出し育む、という意味においてクリエイティブの条件を元から備えている訳です。皆クリエイターであり、音楽や美術といった所謂アーティストの独占的言葉では決して無い。ましてやキャッチコピー的に使われ、押付けられる言葉でもありません。

ですが、広宣流布的に使用されるクリエイティブという言葉とは、食い違いがあります。彼らの言うそれとはつまり、「独自性、オリジナリティを高めろ」というニュアンスに近いのかもしれません。そして次のような言葉が続くでしょう。「ただし杭が出ないレベルで。要は目立てば良い」。それは隠れた前提、というか本音であり、良い格好して表にしている言葉とは大きな矛盾と思惑を孕んでいます。(この「独自性、オリジナルティ、それを公にする」という事については、また改めて書きます)

クリエイティブ、という言葉はややこしい、というか本来深くて重いものであるはずなので、個人的には軽々と口にしたくありません。では、代わりにどんな言葉があるか。
関連するものとして、「想像」と「創造」がよく挙げられます。
読みが同じで意味的にも近いように思われますが、方向性が違います。

「想像」とは内的なもので、「創造」は外に向かうものです。そしてこれらは分割出来るものではなく、蝶番のように貼り合わされて機能します。

そしてまた1つの疑念が浮かぶわけですが、それは想像力を内包していない外への発信物が増えすぎているのではないか。
総発信化社会であるから仕方ないとはいえ、外へ発する事のみが無意識に優先されてしまい、他者への想像力への配慮はおろか、自分の想像力を自覚する事すら忘られがちである、という気がします。となると、個人の価値がゆらぎ、結果として不安が襲いかかり、かえって集団すなわち権威に縋って思考停止状態に陥ってしまう可能性があります。

クリエイティブ性云々と叫ばれたり、むやみやたらに何かを外に発信する前に、まず「想像力を創造する」という事が先でまた最重要である、と自分は考えます。

どういう事かというと、想像したものを内的に創造する過程を踏む。このフィルターを通すか通さないかで、自分が外へ発した何かの重みというのが違います。

 

たとえば、誰かと会話した時、相手はどんな思いでその事を口にしたのだろう、もしくは自分がこんな事を話すと相手はどんな事を感じるだろう考えるだろう、とワンクッション置いて一度空想し展開してみる。もしくは、たとえば綺麗な花を前にした時、なぜ自分はこれを綺麗と思うのか、逆に綺麗でないと思う人がいたら何を言うだろうか、もし花に人格があるとしたらそれは何を考えて咲いてるのだろうか「私って超綺麗なの。だからみんな私を見て!愛でて!」とか思ってるんだろうか、とあれこれ空想してみる。

これらは、世界というのは自分1人だけで出来ているのでは無い、という当たり前だが忘れられがちな事実を自覚する機会でもあるのです。


この「想像力を創造する」力を意識的に育み鍛える方法は色々あると思います。
ダ・ヴィンチは壁の染みから連想して作品を生み出せる、と書いたそうですが、それはクリエイティブ性が長けていた云々以前に、豊穣な想像力の展開に寄るものです。
そして、その種は手近にある。
楽器を演奏したり絵を描いたりしなくても、身近なことから始められるのです。

個人的に何か挙げるとしたら、散歩をする事をオススメします。
偉大な芸術家や哲学者は、ほぼ例外なく散歩を日課としていました。

言うまでもなく散歩をすることは、全感覚を刺激します。それも気軽に。

卑近な例になりますが、自分の家の散歩圏には古い民家から真新しいマンション、学校、神社や寺院、川沿いと大きな公園、そしてちょっとした遺跡があり、かなり恵まれた環境にあります。
コースはまばらですが、大体30分~1時間ほどで廻れ、これだけでもネット以上の情報そして体験があり、そこには想像力に満ち溢れた世界が広がっているのです。
その時、たとえば民家を眺めてみてどんな人達が生活しているのか空想したり、散歩してるあの犬はなんで派手な服を着せられているのか考えたり、川沿いを見つめてかつてここら辺はどんな風景でどんな人達がどんな思いで生活していたのだろう、とあれこれ想像を巡らす。

もちろん、何にも考えずにただぼぉーとしながら散歩するのも良いものですし、隣町へあてもなく歩いてゆくのも良いでしょう。新たな体験が得られるはずです。
それと、時間帯によって広がる光景は当然ながら違います。
自分は夕暮れ時が好きなのでよくこの時間帯を散歩に当てているのですが、朝や昼にはまた違った発見がある。
特に深夜の散歩なんかは格別です(もちろん近隣迷惑を配慮した上で、です)。
寝静まった家並みがあり、街灯に照らされた公園の遊具とベンチで眠りにつく人が居り、朝まで休んでいるバス停があり、空車のタクシーが通り、光を発し続けるコンビニやファミレスがあり、真っ暗なガソリンスタンドがあり…と、陽が当たる時には見られない光景が無限に広がっています。そこで何を想像しそれをどう展開(すなわち創造)するか。

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長くなりましたが、身近で簡単にそれも1人で出来る「そうぞう(想像と創造)力」を鍛える方法を列挙しておきます。
まず散歩をし、読書(特にSF小説)をし、そして様々な映画をとにかく観る。特に後者2つは、できるだけ能動的に。
それを毎日コツコツ続けてゆく。
これらは、外へ発するための筋力を身に付ける基礎練習でもあります。
短期的な判断をするのでなく、5年後10年後の肥やしになるという心構えでゆくべきでしょう。
そして、徐々に徐々に芽を出し水と陽を与え続けて、実りを得る。
何かをクリエイトするというのは、正しく農作です。
それは限りない根気と士気が求められ、突き詰めるほど軽々しく扱える言葉ではないはずです。
それがたとえ、家庭菜園であっても。