静夏堂

個人的考えのまとめ。主に音楽や本や映画とかアートとかについて

意識高い系はアルジャーノンの夢をみるか?

識高い系という言葉は、すっかりお馴染みになっています。
定義は様々でしょうが、主に高校や大学在学中から上昇志向が極度に強く、中には起業や団体を興したりする若い層を指す事が多いようです。

ただ、蔑称的ニュアンスとして使われているのが目立ちます。

そういった状況にまったく関心が無い、といえば嘘になりますが、別に騒ぎ立てるほどでも無い気がします。というのも、有史が始まってから、というか先史時代でさえも意識が高い若者は絶対居たはずで、そういった若者の中からその後の歴史の主役のほとんどが生まれたとさえ言えます。

だからそんな長い目から見れば、それほど特異な現象だとは思いません。

ネットの普及とともに母数が増え、それが目立っているに過ぎないのでしょう。

戦後70年を振り返ってみても、今で言う意識高い系に該当する若者は沢山居ました。
1948年に光クラブ事件をおこし三島由紀夫の『青の時代』という作品のモデルになった東大生が居たり、安保闘争の流れから全共闘運動・大学紛争があったり、80年代になればポストモダンの流行で読めもしないフランス系哲学書を脇にしてキャンパス歩いたり、世紀末感からカルト宗教に走ったり…と枚挙にいとまがありません。
そして大人になった彼らは過去を振り返っては、赤面がちに口にします。

「なんであんなに熱くなれたんだろう」と。
つまり、いつの時代も多くの若者は基本的に熱が高めである。そして世間はそれに対して、基本的に熱苦しさを覚える。これは、今までもこれから先も変わらない事でしょう。

また、これも各時代同じでしょうが、意識が高い若者というのは基本的に利口であり、その事に自覚的である。だからこそ自分が授かった賢しさを社会へ有効活用しなくてはならない、という大義名分を掲げている人も多いです。
これは非常に立派であり、出る杭は打てと嘲笑し揶揄する主にネットを中心とした世の風潮は決して良いものではありません。


ただ、「自分は頭が良い」ことに自覚的である、というのは時に視野狭窄がちになり、場合によっては危険でもあります。
評論家の呉智栄はかつて「心理学者や脳科学者といったのは、一段人の上に立った目線を持つ。それはかえって、バカになりやすい」と書いていました。
つまり、「人を見下しがちで万能感に酔う」というより、「自分の立場が把握しずらく、足を外してしまう可能性が高い」わけです。

 
「Stay hungry Stay foolish」
スティーブ・ジョブズの名言としてあまりに有名で、意識が高いと括られる人はこれをよく座右の銘に掲げているようです。が、この言葉をどれほど咀嚼しているのか。
話が少し脱線しますが、以前、ジョブズを信奉する絵に書いたような意識が高い人と会った事があり、その時に驚いた事があります。

ジョブズの話の流れからボブ・ディランについて軽く触れたら、「ボブ・ディランって誰?」と彼の口から発せられたのです。その時、自分は「この人はジョブズについて何を学んだんだろうか。新製品発表会の時には出囃子にもしているし、何よりディランを始めとするロックスターからジョブズは多大な影響を受けた。彼らがもし居なかったらジョブズも無かったかもしれないのに」と口にはしないものの呆然としてしまいました。


「意識が高い」というより、「自分は他より頭が良い」と自覚的であるという事は、果たして得なのだろうか。

もっと言えば「頭が良い」というのは本当の所、何なのか。

 

ひとつ言えることは「頭が良い人」というのは、利用価値が高いという事でもあります。
その極例がマンハッタン計画に携わった科学者達です。

彼らは20世紀そのものを作ったとさえ言える正しく歴史を変えた人々ですが、そのリーダーであったオッペンハイマーは戦後、罪の意識にかられ絶望を味わったといいます。
一方で、その天才集団の中からも悪魔的頭脳と特別視され、戦後も対冷戦に向け核政策に関与した数学者のフォン・ノイマンがいます。

20世紀の「表の天才」をアインシュタインとするならば、彼は「裏の天才」とも言えます。前述の通りノイマンは、積極的に核政策の仕事をこなしてゆきました。が、実験や開発の立ち会いの際に浴びた放射能が原因で、白痴状態になり激痛を味わいながら死んだといいます。

個人的にノイマンの事を思うと、カルトスター的な憧憬と同時に気の毒な思いにかられます。

「頭の良さ」を考える上で、対義である「知能遅滞」についての一考が必要かもしれません。
その時に参考となるのが『アルジャーノンに花束を』という作品です。

有名なSFなので詳細は省きますが、知能とは何なのか、低いもしくは高い知能を持って世間すなわち他者と接する事とは何なのか、といった考察の一助になります。

本当に自分は頭が良いのか?頭を良くしてどうするのか?自分より頭が劣っていると思える人を前にしてどう接するのか?先天的な知能障害者については?自分の身内に知能遅滞者が居たら?もしくは自分が事故などにあって知能に損傷が生じたら?…


多くの人は、上記のようなことを理解し想像するのが可能です。

だから、頭を良くする事ばかりに熱心になるのでなく、そういった面も念頭に置く必要性があると思います。「自分は頭が良い」という事に自覚的である人は尚更です。
社会において知能というのは、他者があってこそ存在しえて意味があるものではないのか。
これは、相互理解への話にも繋がってゆきます。

アルジャーノンに花束を (ダニエル・キイス文庫)

アルジャーノンに花束を (ダニエル・キイス文庫)

 

 

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