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静夏堂

個人的考えのまとめ。主に音楽や本や映画とかアートとかについて

大人と子供の消滅☆ニュータイプとスターチャイルドは生まれるか

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分は幼い頃から、「子供らしくない」とよく言われて育ちました。
これは良い面で捉えれば「落ち着いている、大人びてる」であり、逆に取ると「子供の分際で屁理屈こきやがって生意気だ」という相反するニュアンスが混じっています。

思い起こせば、確かに自分は落ち着いた子供ではあった。
が、これは周りの空気を必要以上に嗅ぎとってしまっているだけで、また単に積極性が少ない意気地なしでもある。

逆に、機嫌が良い時には饒舌で活発であり、筋の通っていないクソつまらない話を威張ってする大人を前にした時には、つい反論してしまう。
それも徹底的に。
で、論破してしまった際には、腹立たしい顔をしている大人の顔なんか目にも入らず、悦に浸ってしまう。

これはたまらない快感であり、癖になります。
が、そんな性癖もいつしかピークを迎え、歳を重ねるごとに、そんなのは自分のエゴの露出にすぎず相手の事を配慮していないものだと気付き、軽く自制出来るぐらいにはなりました。

(ちなみに、アメリカだけでなく今や日本の高校・大学生なんかの討論会は、議論より論破するのが目的といったのがよく見受けられます。それがどこか、いけ好かない印象を抱くのはそのためです。だから彼らには、ビートたけしをまず見習って欲しい。理由はまたいずれ書きます)

さて、自分には歳の離れた小学生の弟がいるのですが、彼らを見ていて痛感することが1つあります。

それは、自分がかつて言われていたような「子供らしくない」以上に「子供らしくない」のです。
自分が歳を重ねたからそう見える、というより、時代環境の変化と連動したもっと深いものであると感じられます。

もちろん、子供相応の遊びをし言い草も小学生特有なものでゲームやテレビそしてネットなんかをしてはよく笑ったりするのですが、基本姿勢が醒めており諦観的である。
世代間云々と言いたくないですが、いわゆる「さとり世代」な特徴なのかも分かりません。

90年代以降の生まれがデジタルネイティブ世代云々言われ自分もそこに属する訳ですが、実際はネットが浸透した時代すなわち確立~発展期に立ち合っていたにすぎません。
が、2000年代以降の生まれである彼らは生粋のそれであり、また年月が積み重なるごとに新たな技術と連動した子供が当然ながら増殖してゆくはずです。

アーサー・C・クラークの代表作にしてSFの金字塔たる『幼年期の終り (ハヤカワ文庫 SF (341))』では、スターチャイルドという今までの人類とは決して分かち合えない子供達が生まれ出し彼らを別の惑星へ移住する、という話で締め括られています。

そんな事態がいずれ起るかもしれない、と今ここで書きたいわけではありません。
ただ、かつて居た子供というのは確実に消滅していっている、とは強く思います。

では逆に、「大人」というのは今どうなっているか。
個人的な印象としては、もはや絶滅に近いと言って良い。
そしてそれは、子供のそれより深刻で危惧せねばならない事です。

たとえば、公共性について語れる大人が今どれほど居るのか。

本ブログのような読者が少ないものでもSNSでも匿名のものでも、基本的にそれは表へ出るものです。
つまりどんなに私的なことを発したつもりでも、公のものになるのです。

もちろん個人の尊重が規定されている限り(いやされようが無かろうが)、何かを発するというのは基本的に自由です。

が、それが公に繋がるという意識は念頭にあるのか。
あるのであれば、SNSでのバカな騒動や掲示板などで罵詈雑言がこんなに溢れることは無いはず。

そして、そんな大人げない事をしている人間の大半は成人である。
そんなのが否応なく日々触れてしまうという世の中というのは、決して正常では無い。

これらを目にする事によって受ける影響は青少年へのそれより、歳だけ取った無知で馬鹿な大人達の方が危険です。
「気にしなければ良い、無視すれば良い」という声もありますが、果たしてそれは大人の反応なのか?
単に自分の精神衛生を守る為の目隠しにすぎないのではないのか。
そんな感覚を、後進の世代へと見せて良いものなのか。

ネットを通して見るに、現代人の何かに対する反応、というのは以下の3つに別れると思います。
共感できるものには「すごい、神だ!」であり、嫌悪感が出るものには「ウザい、死ね」、そして分からないものに対しては基本的に無視。

つまり極端である。
これはボキャブラリーの貧困以前の問題で、対象についての探求や好奇心の欠如に起因し、それはつまり自分の気持ちを一番とするエゴの肥大化とさえ言っても良い。

また刺激物と添加物いっぱいのモノゴトに溢れて日々それらに触れ続けていると、不感症になってゆきます。
どういう事かというと、粘膜が麻痺し、美味しいかどうか気持ち良いかどうかの判断すら出来くなっている。

こういったのは若年層特有だとは言えず、自分の親に当たる世代にも見受けられます。
となると、やはりかつて居たはずの「大人」というのが消滅しているのに等しい。


では、かつて居たはずの大人とは何だったのか。

それは、修身を日々意識し自ら律し道徳を後進へと伝える大人であったと思います。
「お天道様が見てるよ」、「情けは人のためならずだよ」と伝え、それを行動で示す大人が絶対に居た。

そして何より、子供に対して「本気」で大切なことを伝えたはずです。

富野由悠季の至言の1つに「子供をナメるな」というのがあります。
アニメという子供が観るものであっても、決して子供だましなものであってはいけない。
なぜなら、そんなのを作ると、子供は絶対に大人のそのまやかしを見抜く。
結果、人を信用しなくなり自己中心的で、本気で何かをする、ひいては生きてゆくというのを破棄するような人間になってしまうことに繋がる。

だから大人は子供に対し、自分の律儀や思いを本気で伝えなくてはならない。

では、自分を含めどんな大人になるべきか。

それはやはり、上記に書いた通りかつて居たはずの大人のあり様を見直し、何事にも本気で取り組むことから始めるべきではないでしょうか。
子供だけでなく他者と面と向かう時は、極力本気で接する意識を持つ。
そして相手のことを理解する努力をする。

加えて書くと、世代間の共有意識というのは基本的に断絶しているものであり、つまり分かり合うことは不可能に近い。

というか、同世代だろうが何だろうが、他者と完全に分かり合えることは絶対に無い。

だからといって「分かろうとする」努力をしないのは甘えです。
反対に「分かって欲しい」と伝える意志の不足もまた然りです。

「何かを伝えること」、それは人間が人間たる大きな役目であるのだから。