静夏堂

個人的考えのまとめ。主に音楽や本や映画とかアートとかについて

『芸術とは何か』読書感想文&個的芸術とは何か?

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                                       (ラスコー壁画)

解を恐れずに書きますと、自分はいわゆる「芸術」なんてものに価値は全く無いと考えています。
ここで言う価値とは、「日常必需品」としてのそれです。

極例を出せば、飢餓に陥っている人の前でモナ・リザと一欠片のパンのどちらかを選べとなったら無論、後者を選ぶに決まっています。
モナ・リザを選んでそれを売りゃ良い、って考えは浮かぶはずありません。なぜって頭では分かっていても、そうする体力がまず無いのだから。

よく「芸術は人を救う!」とか言われたりしますが、それは精神的なニュアンスとしてで、そう喧伝する人は唯心論の迷路に迷い込んだ理想主義者です。
リアルな生活の中には、芸術なんぞに人を救える力など微塵とも無い。

また職業としての芸術家(表現を売りにする者)を社会構造の中であえて位置づけすると、最下層に属することになります。
というのも産業としても社会的役割としても、優先順位が最も低いものだから。
これは、一流の作家であればあるほどその事に自覚的です。

芸術というのは衣食住の余裕があって初めて出来ることです。
ラスコーやアルタミラの壁画にしろ、狩猟で得た満腹感を経験してそれをまた味わいたい、という願いを込めて描かれたものでしょう。
世界中いつでもどこでも芸術とされるものは存在しますが、その多くは祈願としての役割を担っているものがほとんどで、アメリカを中心とするキャピタリズムの中での文脈の芸術というのは少数なのです。


さて、そんな芸術の限界性についての私感を軽く述べてみましたが、千住博著『芸術とは何か』を読んだので、その感想文を記しておきます。

上記に書いたような、芸術の無力さ限界さについては触れられていないのは惜しい点なのですが、ふだん我々が漠然と抱く「芸術って何なの?」という147の問に対し、先端を走る日本画家の自負に見合った答えを潔く、そして分かりやすくも深く書かれています。
ただし著者が画家な為、芸術といっても9割方美術についてに絞られているので留意が必要です。

日本画と西洋画について各素材の違いから説明され、またその歴史的経緯、創作方法、美術教育、その価値と価格など多岐にわたって書かれています。
個人的にも日本画への興味が再熱し勉強している最中なので、おさらいとしても最適です。
特に著者が選ぶ世界と国内の絵画と美術館ベストは有名所が多いものの、初心者にとってはかなり参考になると思います。

秀逸な見解だと思ったのは、問128の「なぜ日本人は印象派が好きなのか?」という部分。
そもそも印象派の発端は、写真術が生まれ絵画は終わった存在と見なされた19世紀末、次の美術はどうするか悩んでいた作家達が目にしたのは、極東の地から包装紙として使われていた浮世絵。
周知の通り、彼らにとってそれはそれはショックだったでしょう。それはエキゾチシズ以上の何かであったはずです。
浮世だっていうのに日常の風景をこんなに平面的に、そしてデフォルメの限りを尽くして劇的に描いているのがあるとは…

それをインスピレーションに、普段目にする風景を各作家の技術で心に浮かんだ感覚で描く、すなわち印象派が生まれた。
したがって、印象派の種本の1つになったのが我が国の浮世絵であり、文明開化の流れで西洋画が紹介された際、キリスト世界や貴族の絵より日常の風景を描いた印象派の方が当然親しみやすく、それが今に至るまで続いているということです。

ちなみに本書では記されていませんが、印象派というのは日常の風景を中心に据えたという画期的なものであったと同時に、20世紀になり市場への投資すなわち経済絵画の舵を切ったものです。
だから、ゴッホを始めとして桁違いな価格で取引されている。
資本主義が確立した時代と絡むが故、とても皮肉なものなのです。

本書の惜しい点を挙げると、問126「アニメは芸術か?」の箇所。
それに対して著者は、芸術であると即答しているものの軽く記すに留め、挙げられているのはやはり宮崎駿であり、著者自身の趣味に偏っている。
つまりアニメへの芸術的理解が浅い。
アニメを映画と関連した芸術として見てもう一人挙げろとなったら、宮崎ひいては黒澤明以上の演出力を持つであろう富野由悠季出崎統等も列挙されるべきなのですが、恐らく著者はそれらの作品を観たことが無いんだろうな、とか勝手に思ったりしました。

で、「アニメは芸術」なんて富野に言ったら「あんなオモチャ屋の手先にされた愚民が作ったモンを、アカデミズムに侵食されたお芸術なんかと一緒にされては困る」と天邪鬼に答えるでしょう。

●平和への主張と逆説的起爆剤

さて今一度、芸術に対する個人的な見解を軽く述べます。

まず、「人類普遍的な共通理解による美の受容」というのは自分は眉唾ものであると感じます。
というのも、人間というのは環境に絶対的に影響されて反応する生き物であり、美を感じる対象もそれに拠るものだから。

だから、「芸術は素晴らしい!芸術で世界を平和に!」とか叫んでいる人を見ると、そんなこと簡単に口にするんじゃないよ、と思ってしまいます。

近年では「反原発」と主張しながらライブをする世界的な音楽家なども居ますが、その姿勢には引いてしまい、不快ですらあります。
芸術をムーブメントとしての利用するのは、ナチスと同じではないか。
それがたとえ平和を訴えるものであっても。

ただし、彼らがそう言ってしまう思いは分からなくもないです。
冒頭に述べた通り、芸術というのは基本的に豊かな状態でないと味わえないし共有もできない。
鶏が先か卵が先かで言えば、鶏(安定した状態)が先で、結果として卵(芸術)が生まれ得る。
だから、多くの表現者は世界平和を人より多く主張する。
そして同時に彼らは、彼らの表現の限界を痛いほど知っているからそうする。

たとえばマイケル・ジャクソン
未完にして集大成たる『THIS IS IT』を観ればよく分かるのですが、彼は心底、本当に心の底の底から自分の歌で世界を変えられる救える、と信じていた。
マイケルの周りを囲む超一流の演奏者ダンサーもその思いは強いでしょうが、とても彼には及ばない。
それが結果として、マイケルのパフォーマンスはより一層超越したものになる。

「金も名声も腐るほど得た。それでも世界は自分が望むような平和な世の中じゃない」という屈折した思いを経て向かう先は、「だから自分が持っている力全てを使って平和な世の中にしたい」。
そしてそれが比類ない表現を発揮させる。
つまりノブレス・オブリージュの意識であり、そして起爆剤なのです。
理想を極力高く設定して物事に取り組む、というこの姿勢は実に見習える所です。

最後に付け足しとして書きますが、自分は「芸術」という言葉が好きでない。

理由を軽く記すと、この言葉が大げさすぎて時代錯誤な権威的にし理解を遠のけているのではないのか。

そもそも術って何だよ忍者かよ、とこの言葉の生みの親である西周に言いたくなります。

じゃあ何が当てはまるのだろうかと考えると、もういっそ「芸能」で良いと思います。

安っぽく聞こえようが、「表現する」という事は同じなんだから。

(ついでに「哲学」も西周によるのですが、これは絶対直訳的に「愛知」とすべきです。愛知県はそれで町興しが出来て理屈民族が集い、かつてのアテナイのようになるかも)