静夏堂

個人的考えのまとめ。主に音楽や本や映画とかアートとかについて

「癒し」の時代の終わりとアウフヘーベン

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                                      (photo by szk)

分は、1991年に生まれました。
つまり、90年代を幼少期から少年期までを過ごした事になります。
その頃のことを振り返ると、基本的に楽しく幸せなことが蘇ります(当然、思い出補正はかかっているものの)。
ドブ川が流れる横浜のニュータウンには、マンションと大型商業施設が並び建つも昔ながらの商店街があり所々にはまだ畑や空き地などがあって、その新旧入り混じった場所を遊び場としていました。

つまり、典型的な郊外っ子として過ごしたわけです。

世相に目を向ければ1990年代というのは、暗黒の始まりいわゆる「失われた20年」の幕開けであると言われています。
周知の通り、バブルが崩壊して経済成長が終わりそれに起因した現代まで続く不況。
加えて、大震災が発生し、地下鉄にサリンが撒かれ、猟奇的な少年犯罪が多発する。
一言で表せば、不安と閉塞感が社会を包み始めた時代と言えます。

逆に、サブカルチャーを中心とする娯楽文化面はどうだったか。

「少年ジャンプ」を早売りで待ち望んだだろうし、スーファミやプレステなどの新型ゲームは出るし、ビーイングから小室サウンドとCDは桁違いに売れてはカラオケで歌い、オシャレに決めたい時は渋谷系を聴きながら下北沢界隈を散策し、引きこもりがちでも『エヴァンゲリオン』を発端にアニメが深夜に流れ始め、そしてインターネットが浸透しだした。

すなわち、娯楽的には絶頂期(もしくは熟成期)であったと言えます。

そんな時代の世相と、個人的な子供の中の子供時代の幸福感が溶け合って、いつからか自分は90年代への憧憬を抱くようになっていました。
そんな時代に青春期を遅れたらどんなに楽しかっただろう、と時に空想したり。

「近く過ぎ去った年代に憧れる」というのは、多くの人が抱くことでしょう。
人によっては80年代や70年代や60年代かもしれないし、もしかしたら世紀を超えた遠い時代に生きたかった、という今の地点から眺めた憧れの眼差し。

これは懐古趣味とはニュアンスが違います。

 

さて、いま自分がその「終末感に包まれつつも娯楽の絶頂にあった90年代」に憧れているかというと、首を傾げがちです。
何故かはよく分かりません。

かといって、「現代が良い」とも特別思ってもいない。
各年代、というのを自分なりに考察してみるようになったため淡々と向き合うようになったから、かも知れません。

90年代というのを象徴する言葉として、「癒し」が挙げられると思います。
もちろんこれは、先述した閉塞感への裏返しとして浸透したのでしょう。
それ以前の日本人の多くが抱くことは無かったであろう「ストレス」、すなわち息苦しさを覚える人が大量発生した。
そんな状況で「癒し」を求めるのは至極当然です。

ここで当時の「癒し」ブームについて詳しく書くつもりはありません。

坂本龍一の「energy flow」が流れそんな言葉が頻繁に口にされていたのは記憶の片隅にあるものの、その時の自分は当然ながら癒しを求めておらず、実感を知りません。

ただ、00年代〜現代に至るまで、この「癒し」というのが恒常化してゆく過程を見ては、その流れにおいて自分も何かしら癒しとされる何かに浸っていた、とは思います。

さてこの頃自分は、この「癒し」を日々求める現状、というのにいささか疑問を抱くようになってきました。
どういう事かというと、そんな状況は決して正常とは言えないのではないか。
相も変わらず、息苦しさを覚えている人はたくさんいる。
というか、年が経つにつれて増えているのではないか。
この10年で、心療内科の数は倍増したといいます。

そんな点からして、もはや「癒し」では歯止めが効かない状況であると言えます。
当たり前のように電車が止まり、それをさも当然のように受け止め日常化しているのは、気違い沙汰でさえあります。

そこでそんな暗い現状を、嘆くつもりもありません。
現代社会を語る批評家とされる人たちは、時代のダメな部分を叩くことばかりに相変わらずご熱心なようで、嫌気が差します。
「ダメな世の中だ!」と頭の良さそうな事を言って叫ぶのは、いい加減聞き飽きた。
イヤなことやダメなこと、つまりマイナスなことを指摘し叫ぶことは簡単です。
それが今やネットを中心に一般人にまで浸透し、罵詈雑言で溢れています。

「日本には批評が存在していない」と芸術界ではよく言われているのですが、現代社会のそれですらこんな状況です。

ここで哲学用語を使いますが、弁証法というのがあります。

その代表たるヘーゲル弁証法によれば、まず「テーゼ」がありそれに対する「アンチテーゼ」、その2つを統合した命題「ジンテーゼ」があります。
そして、相互の否定を生かしつつより良い段階を出す総合命題すなわち「ジンテーゼ」へと導く過程を、「アウフヘーベン」と言います。

このアウフヘーベンの意識が、プロの批評家にあまりに不足しているのではないのか。
否定と否定と否定の繰り返しの堂々巡りと水掛け論で、落とし所を探らず、その自覚すら無いように見えます。
NIRVANAの「Smells Like Teen Spirit」の歌の最後に叫ばれる「a denial (×9)」のようで、一般人といえば「鈍感な愚民のテーゼ」の合唱状態です。


ただ、今自分が書いているこの文章も、否定的なものとなっており、同じになってしまいます。
卑下自慢をするつもりはありませんが、馬鹿は馬鹿なりに頭を捻ってみましょう。

ゴチャゴチャと書いていますが、つまり何が言いたいかというと、「癒し」にすがる時代はもう終わった。
愚痴ばかりこぼしている世の中にも胸焼けがする。
付け加えると、日本はもう発展することは無いでしょう。
なぜって熟成しきった最先端を突っ走る、ある意味アメリカ以上の先進国なのだから。

これらを念頭に置いた上で、我々はどうするべきか。

甘えに見えるかもしれませんが、今の自分程度の人間には、模索の努力はしているものの、その方向性を示す具体的な提案をすることが出来ません。
また各自の意識行動は十人十色なため、ひとまとめに書くつもりも無いし、断言も出来ない。

ただ、愚痴をたらたらこぼす習慣は控えめにし、良い落とし所(ジンテーゼ)を探る努力(アウフヘーベン)の意識は持つべきでしょう。
それが、発展しきった息苦しさを覚えるこの日本で生き、そして次のステップへ登るために必要な事だと思います。

そのための個人的に出来る具体的な訓練の提案を、あえてしましょう。

それは、夕陽を眺めることと、SF作品を積極的に鑑賞することです。
前者は現在の立場から1日の終りすなわち過去を振り返る機会になり、後者は未来予想図が描かれてこれからどうするか考える上でのヒントが得られます。

いつの時代も、未来というのは現実の中にあります。