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静夏堂

個人的考えのまとめ。主に音楽や本や映画とかアートとかについて

「返事の蔑ろ」と「他者への配慮」 人と人の間で生きる事について.1

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                                                                                                                                       (Photo by szk)

解を恐れずに書きますと、僕は人が嫌いです。
というか、人類そのものが嫌いです。
地球からしたらこんなにウザったい生き物は無いだろうし、もし神的なのが世界を創造したとするならば、人類なんてのはどうしようもない失敗作でしょう。
その失敗作の人類の一員である自分自身がまず、あまり好きでない。

が、ここで自分がなぜ人が嫌いかだとか書くつもりはありません。
嫌いな人のことはいくらでも書けるし、人のイヤな部分とか見抜く才能と自信はメチャクチャあります。
ただ、罵詈雑言で溢れた憂さ晴らしは、書いている方は鬱憤が晴れて気持ちが良いものですが、読む側にとっては不快なものになってしまいます。

ですが、「どうしても許せない」というか「社会で生きる人間としてその姿勢はどうなのか」と常々憤り、ためらい、諦観し、でもそんなのは正常とは言えない矯正されなくてはならない、ということが1つあります。

それは、「応答を求めているのに返事を蔑ろにする、ひいては無視をする」ことです。

そんな人、僕は本ッ当に、大嫌いです。
自分とは違う生物である、とさえ考えてしまうこともあります。

この「返事の蔑ろ」は当然ながら、メールを代表とする我々が日々扱う媒体で多く見られます。

恐ろしいのは、これが無意識化していることです。

つまり、悪気は無いけど後で良いやと返事をなおざりにし、下手したら忘れてしまう。
大げさに聞こえるかも知れませんが、これは相手の事を考えていない、もっと言えば自己中心的でエゴの肥大化でもあるのです。

 

もちろん、人にはそれぞれ事情があります。
これは公的でも私的でも同じです。

ただ、限度というのがある。

個人的な例を出せば、公私関係なく、10日以上レスポンスが遅れる人に対する自分の信用度は、限りなく下がります。

逆に、自分が返事を出す場合は、当然ながら早く返すようにしています。

ただし、これは自慢できるものではありません。
なぜなら、単純にこれは心配症でせっかちな自分の性格に起因するものだからです。
ということは、自分もまた相手への配慮より自分の精神安定性を優先しており、その意味で自己中心的な姿勢だといえます。
■ 

エゴの肥大化というのは、知らず知らずのうちに、人々の首を互いに締め付け合います。

つまり、生き辛くさせる。
もっと言えば、殺し合いすなわち戦争にさえ繋ってゆく、それも簡単に。

ピンと来ない人は、富野由悠季の『伝説巨神イデオン』や、芥川龍之介原作で黒澤明の代表作の1つ『羅生門』などを観ることをお勧めします。

さて、戦後教育は「欧米人の如く、自分の個性を押し出せ」と連呼して行われたと言われますが、その個性至上主義の頂点はゆとり教育でしょう。
そして、自分はその世代に属する。

ここでゆとり教育云々を書くつもりはありません。

ただ、この世代はネットを舞台に、自由にそれも簡単に「自分」を表し押し出せることが可能になった、初めての世代である。
これは、良いとか悪いとかの話ではありません。

だけど個人的にはその弊害の方が目につくので、気になる事をひとつ書きます。

それは、ありもしない「自由」に浸り、「個性」という幻想にかかってしまい、それに苦闘している人々が増えているような気がする。

仮に「自由」や「個性」があるとするならば、それらには「責任」が伴い、自覚せねばなりません。

だけど、そんなことは誰も教えてはくれなかった。

自分で発見し、身に付けるしかありません。

つまり、自律性を否応なく、そして強く要請されているのです。

「返事の蔑ろ」について話を戻します。

これは、メールやSNS上だけの問題か。
そうではないはず。
あまりこんな書き方したくありませんが、意識的にしろ無意識的にしろ、公私ともに有害となる何かを摂取し現代人の身体を蝕んで、生き辛い世の中にしていると思えます。

メールだから、目に見えないから、と相手へのレスポンスを軽率にするのは、「目の前で挨拶されても、返さない」のと同じなのです。

「こんにちは」と挨拶したのに相手が無視したら、どんなに傷付くか。

逆に、挨拶されてこっちもお返しをすると、どんなに気持ちが良いものか。

これは最近、近所を散歩していて、お年寄りや保育園児ぐらいの子ども達が、自分と目があった時にあちらから挨拶してくれた際に、実感として気付いたことです。

同時に、同じ町に住む人々に挨拶ひとつ出来てなかった自分を恥じました。

 

挨拶し合うこと。

これはどういう事かと言うと、「この世に自分の事を認知してくれる誰かが、確かに存在している」、そして「他者が自分の周りに存在している、すなわち自分は1人ではない」と思えるのです。

ただ、これは認識論では無い気がします。

それ以前の、動物が自分以外の動物を鼻をかきながらお互いを確認しあう、それに近いものでは無いかと思います。

(続く)

 

人と人の間で生きる事について.シリーズ↓


生徒会長的人間への嫌悪と回路の模索.人と人の間で生きることについて.3 - 静夏堂