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静夏堂

個人的考えのまとめ。主に音楽や本や映画とかアートとかについて

エロ・グロ・ナンセンス+カオス−サブカルという死語的連綿体

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                                (『さよなら絶望先生』第一期OP)

人的な所見を述べますと、下北沢や中野ブロードウェイに代表されるようなサブカル店というのが、好奇心満たされて楽しいけれど、苦手です。
正確に言うと、そういった表現やモノ自体は面白くて興味深いけど、「サブカル系」とか「アングラ系」といったのに「自分は属し、普通とは違う人間だ」と標榜しアイデンティティとしている人々が、苦手なのです。

同性愛の世界では「ホモのホモ嫌い」という言葉があるそうです。
つまり、同族嫌悪です。

これと近い感情なのかも分かりません。

ですが、自分はそのサブカル層に属している意識はありません。

というのも自分は元来、流行モノに適応出来ずかつサブカルやオタクといった層にもなれない人種なのです。

なので、非常に面倒くさい矛盾した性格をしており、いろんな意味で疲れてしまいます。

「何かどこにも属せねーなぁー寂しいなー」と思うと同時に「まあいっか、趣味趣向を他人に無理やり合わせる必要も無いし〜」と振り子の如くゆれ動きます。

さて、そんな「サブカルチャー」について少し考えてみたいと思います。
そもそも「サブカルチャー」とは何か。
その定義自体が無数にありますが、まず辞書的な定義としては以下のようになります。

サブカルチャーとは - Weblio辞書

つまり、本来の意味合いに則ってまとめると「アカデミズムや純粋芸術という社会的支配文化(メイン・ハイカルチャー)に対しての、大衆からの抵抗的文化(カウンター・カルチャー)」となります。

第二次大戦後の20世紀後半の世相と連動した大衆文化たるカウンターカルチャーを源流とし、それが娯楽及び文化として全世界的に浸透消費されたもの、として良いでしょう。

またここでは、アカデミズムの世界でメインの研究対象とされている文化作品を所謂ハイカルチャーとし、対象とされていないものをサブカルチャーとします。

今日の大学にはサブカルなども考察をする「メディア文化研究科」といったものもありますが、「文学部英米文学科」といったような直流的な扱いはされていないと思います。

「文学部大衆文化学科」とか「音楽部ロック学科」というのがアカデミズムの世界で生まれ確固たる地位を占めるのは、おそらく50年から100年先の話でしょう。

今の英米文学科の研究考察を例に取ると、シェイクスピア〜20世紀初頭までの文学作品をメインとし、戦後最大ジャンルとなったSF作品などには、まだ手が届いていない情況にみえます。
学術というのは評価と参考文献が定まったものを研究考察するものなので、それは致し方ない所ではありますが。

(ただし、考察が骨の髄までされつくされたと言われる『源氏物語』などを、公費などを使って研究対象とし未だ特権的地位にある情況は疑問です。現代において、そんなのは日曜大工的な趣味分野の位置に立つべきです)

 

もし数十年後、現代でサブカルチャーと扱われているものがアカデミズムの研究対象となった時、それはもはやサブカルチャーでは無くなります。

それらはハイカルチャー的扱いとなり、その時にはまた新たなサブカルチャーとされるものが生まれているからです。

この時代による構造変化は、終わりなく連鎖されてゆくでしょう。

アキレスと亀の如く、大衆文化とアカデミズムは決して同位置に立てるものでは無いのです。

さて、現代におけるサブカルチャーに話を戻し、加えて「エロ・グロ・ナンセンス」について記してみます。

まず戦後大衆文化からの流れとしての「サブカル」というのは、死語と化していると思います。

そこでサブカルとされていたのは、マンガやロックやゲームといったものですが、今でははそれら全て日常的な娯楽として大量生産大量消費されています。

つまり少数者のモノでは無くなった。

またハイカルチャーの没落という側面もあります。

電車の中で、古典や純文学を読む大人などもう居ません。

 

次に、集う場所つまり空間の移動変化です。

現代の我々が「娯楽を消費する場所」というのは、日本全国を支配したイオン型ショッピングモールと、このネット空間です。

それを行き来している訳ですが、特定の場所、すなわち下北沢や秋葉原といった所へ実際に通い詰める必要性は限りなく低くなったと言えます。

そういった情況への反動としてAKBなどが生まれ、それらはヤンキー文化とオタク文化の融合でありまた日本人というのはその2種類に分別可能で……と続く訳ですが、長くなるので今回は省略します。

「エロ・グロ・ナンセンス」について。
これは何か。
例によって辞書的な定義によると、「扇情的で幻想的猟奇的でありかつ無意味滑稽な表現を特徴とする、大正末期・昭和初期にかけて興隆した表現ジャンル」です。

つまり、性的興奮と怖いもの見たさのグロテクス要素を含んだものを無意味的にバカバカしく表したもの、と言えます。

これはまさしく、暇を持て余す大衆が根源的に欲する要素を固めたもの、と捉えて良いでしょう。

先述の通り、大不況が襲った昭和初期の大衆文化の代表であり、その流れは今日のコンビニに置かれる雑誌からネットに至るまで連綿と続くモノでかつ、現代のサブカルチャーの直流と言えるかも知れません。

そこで見えてくるのは、かつてあった「サブカル」の次に位置するものとして「エロ・グロ・ナンセンス」的なのが現代の大衆文化の主流ではないか、という事です。

これは、2ちゃんねるからニコニコ動画そしてTwitterといったSNSなどネット文化の中でも、多く読み取れる事象かと思います。

そして、この「エロ・グロ・ナンセンス」に「カオス」が加わると思います。

無理やり造語化すると「エロ・グロ・ナンス・カオス」といった感じでしょうか。

なぜこのような情況になったか探ると、よく言われている様に「ネット空間の出現と浸透、そして昭和初期と現代が似ている云々」なのかも知れませんが、これも長くなるので省略します。

最後に、個人的に思う代表的な「エロ・グロ・ナンセンス+カオス」的表現作品を例示します。

まず冒頭画像に置いた、『さよなら絶望先生』のアニメ版オープニングです。

シャフト制作なのですが、自分は作品の中身よりこのシャフトが作るオープニングとエンディングが物凄く好きです。

絶望先生』以外では『ぱにぽにだっしゅ!』というのがあり、そのオープニングは今まで自分が触れた表現媒体の中で最もショッキングかつ魅了されたもので、絵コンテを模写した程です。

今やシャフトといえば『まどか☆マギカ』が代表的となってしまいましたが、それ以外のシャフト作品のOP,EDだけでも観るべきです。

 

現代アートで言えば会田誠の作品群を挙げないわけにはいきません。

ちょっと前まではサブカル系御用達アーティストな扱いをされていた様に思われますが、それが今や六本木ヒルズのてっぺんで展覧会をやるような評価を得るようになってしまいました。

 

次に、最近知合いの美人な方から教えて貰った『絶望の犯島』というマンガがあります。

これは、まさしく絵に描いた「エロ・グロ・ナンセンス+カオス』な作品です。

女たらしのヤクザが女体に改造され、性犯罪者100人が幽閉されている島へ投下され、その犯罪者達に追われながらある条件を満たせば島から脱出できる…といった内容。

露骨な表現が散見され敬遠しがちな絵柄ですが、話が進むに連れ主人公や各登場人物達の過去が描かれてゆき、単なるエログロだけでなく、物語性が芽生えてゆきます。
それでも、カオスでバカバカしいなぁと笑いを誘うのが、マンガ的であります。

(ちなみに個人的なマンガ観として、「ナンセンス性が無いとマンガとして好きになれない」というのがあります。それゆえ『ナニワ金融道』は露骨で下品だけれどコミカルさがあって好きなのですが、『闇金ウシジマくん』はコメディ性が皆無なので苦手です)

この作品に加え『ぼくは麻理のなか』という作品があります。

これは基本的に上記の要素は少なく絵柄も涼しげなのですが、同じ女体変身モノです。

他にも同列の作品があるらしく、女体変身モノがちょっとしたブームなのかと思ったりするのですが、どちらも「不可抗力的に女体に変身して、その苦痛を味わう」話です。

これは『らんま1/2』から続く男性読者が抱く欲望へのアンチ・テーゼなのでしょうか。

とまあ、長々と書きましたが一言でまとめますと、現代の娯楽文化は「エロ・グロ・ナンセンス+カオスなもの」ではないか、という事です。

ただし、そういったものを過剰に求める世の中というのは、感性の粘膜がカサカサに麻痺している、とも言えます。

そのため、もっと刺激的なものをと麻薬の如く求めるようになり、自律性と公共性が失われる要因にもなります。

そこら辺のことも念頭に置きつつ、退屈と倦怠がこれからもっと支配する世の中で、娯楽といえど一つ一つ丹念に接してゆく意識が要求されると思います。