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静夏堂

個人的考えのまとめ。主に音楽や本や映画とかアートとかについて

モノを書くということ─自発的か否か

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                                                                                             (執筆中のアーネスト・ヘミングウェイ

ブログをはじめて数ヶ月ほど経ち、読んで下さる方も少しずつ増えて来ました。
中には深く読まれている方や記事をブログにて言及される方(墓穴 - 強靱化のすすめ (ふのい倉津浦さんのブログ)もおられ、「自分の力の出せる限り、本気で書いて良かった」という喜びに近いものを感じていたりもします。

ですので、これまで読んで下さった事に対しまず感謝の意を表したいのと同時に、これからも日々精進してゆきますので引き続き読んで頂ければ、と思います。

 

本ブログの当初の目的としては、「日々の思考整理として、とりあえず文章にまとめておく」という漠然としたものでした。

ただ「公にする以上、読み手の事を想定しなくてはならない」というのも同時に浮かび、一人よがりなものには極力せず、かつ稚拙ながらも読み易い文章を書く努力をする、という意識が芽生え今に至ります。

内容に関しては、映画や音楽といった文化的なのを中心に置くつもりが、気付けば公共性云々といった社会的な小難しい事が目立つようになってしまいました。

当初から音楽についての所見を書きためてはいるのですが、未だ推敲中です。

さて「モノを書く」という行為について記してみます。

自慢をするつもりはありませんが、自分の場合「モノを書く」というのを苦に覚えることは、基本的にありません。

数千字ぐらいならスラスラと一気に書けます。

ただし、それは「知識と考察、そして何より自分が書きたいという内発的な動機が備わった時」に限ります。

なので、自分の知識と興味が乏しいものや、他から強制されて書かざるを得ない時などは当然ながら億劫極まりないです。

 

振り返ってみると、自分は学校で書かされる「作文」というのが得意でなく、何より好きだった事はまず無いし「体験記」や「読書感想文」などに至っては苦痛でした。

これは教育の有害性云々という文脈でよく指摘されますが、たとえそれが得意だったとしても好きであった、という人を自分は知りません。

理由は簡単で、それは強制的なものであるからです。

「学校教育そのものが強制的である」といったこともよく語られていることですが、その事については今触れません。

ただ、あえてひとつ主張するならば、小中学校で行われる「読書感想文」といったのは基本的に廃止すべきものである、というのがあります。

これは二つの面で非常に有害です。

第一に好き嫌い問わず読書させられ、第二に得意不得意問わずその感想文を書かされる。
結果、「読書嫌い」を増加させ、「文章を書く」という行為は苦痛だ、と植え付けることに繋がります。

読書が好きでかつ感想文を書くのが得意だ、という場合は難なくこなせるでしょうが、小中学生でそんな生徒は稀です。

そもそも「感想文」なんてのは高度な技術を要します。

今でこそ自分も読んだ本や映画の感想文を当ブログに記したりしていますが、思ったように書けたことは一度もありません。

現在、最も有名な書評家である小飼弾も「読書感想文は難しいもの」と書いています。

すなわち、読書家の大人ですら難しいものなのです。

そんなのを、年端もいかない子どもに押し付けそれを怠ったら成績にマイナスする、というのは異常ではないかと思います。

ですので、「読書感想文」を夏休みの課題等にするならば、自発的に書きたいという生徒に限るべきです。

(余談ですが、現在小学生の弟の課題図書の1つがヘッセの『車輪の下』でした。果たしてこれを選んだ教師は、この作品を読んだ事があるのか。あるのであれば、内容からして課題図書にしないはず。「ノーベル賞作家が書いたものだから大丈夫だろう」というような単純さと甘えが見え隠れしてしまいます)

さて、この感想文の延長として、高等教育では「レポート提出」というのがあります。

これを苦にしない、というのもまた稀でしょう。

多くの大学生は「単位」という報酬を得るが為に嫌々書いており、中には小金を払って誰かに代行させることも珍しくありません。

学校学生双方とも、無意味極まりない現象です。

レポート提出という行為の意味も吟味せずルーチン的に要求している権力側の学校に原因があると言えるのですが、それを致し方ないと鬱屈しながら文字を書き、終いには面倒で時間も無いから、と金を払って代行させる学生も学生です。

そんなのが面倒であるならば、他の単位取得方法を探るか、もっと言ってしまえば学校なんて辞めてしまえば良いのに、とさえ思ってしまいます。

レポート提出というのは、教えられた教科のリライト作文(下手したらコピペの文章)を提出するに過ぎません。

双方無意味に等しい事を、高い授業料と貴重な時間を使ってやるのはいい加減見直されても良いのではないかと思います。

(ちなみに、欧米の大学等はレポート提出が日本とは比較にならない程多い、とはよく耳にします。現地の学生にとってもその億劫さの度合いは、日本のそれと大して変わらないでしょう。ただ、他言語圏の学生からすると作文練習になるという点で良いのでは無いでしょうか。少なくとも、母語圏でやるよりは遥かに有益でしょう。)

さて話が少し大きくなりますが、「モノを書く」という行為が、これ程までに行わている世の中というのは、当然ながら人類史上かつてありませんでした。

通信媒体に触れている以上、誰もがモノを書いている。

それはメールや掲示板やつぶやきやコメントやブログだけに留まらず、検索エンジンで調べる時でさえ、モノを書きます(打ち込みます)。

そして、それらの多くは総じて「自発的行為」であると言えます。

つまり、「自分が思っていること」すなわち「私」を誰かに伝えたいから、もしくは「私が知りたい事」を知りたいから、モノを書く(打つ)訳です。

LINEを代表とするようなメールは、基本的に二者間による相互的なものなので、「私」対「私」のやり取りとなります。

が、TwitterやFBやブログそして匿名の掲示板ですら、「私」は「公」のものと化します。

そこで、もう何度も本ブログで記していますが、いくら「自発的行為」であってもそれが「公のもの」になる以上、「公共性」というのを念頭に置く意識が必要となります。

にも関わらず、「私」の露出の極みといえる「愚痴」がここまで散見されるのは、そういった意識が欠如しているからに他なりません

 

人間というのは愚痴をこぼすのが大得意です。

例に漏れず自分も、機嫌が悪い時は洪水氾濫の如く愚痴をこぼしてしまう質です。

ただ、愚痴をこぼすというのは基本的に思考停止な行為であるといえます。

酒の席での愚痴こぼしならまだかわいいものです。

しかし、公と化す愚痴というのは水害になり得ます。

ネットで散見される罵詈雑言の思考停止性を見抜くことが出来、かつ落とし所を探るリテラシーといったものが備わっていれば、そこまで問題ないかも知れません。

が、そんな能力を日本人はかつてに比べて失ってしまったのでは無いかと思うことが多々あります。

極端な例かも分かりませんが、映画全盛期の邦画と現代の映画を比べるとそういった部分の衰えが個人的に強く見えてしまいます。

例えば1953年公開の小津安二郎による『東京物語』のセリフのニュアンスを、説明過剰な表現媒体に触れまくった現代人が読み取れるか否か。

おそらく、9割方無理でしょう。

もちろん、時代環境が全く違うというのは考慮の上ですし、「昔の日本人はすごかったのに、今ときたら」などと後ろ向きなことを言うつもりは毛頭ありません。

ですが、情報錯乱の現代に置いて、かつての多くの日本人、それも知識層から一般庶民に至るまでが持ち得ていたはずの能力、すなわち文脈や行間を読み解く力は、いま非常に必要とされているものでは無いか、と強く思うのです。

(これは「空気を読む」云々について関連します。それを絡めて改めて記します)

「モノ・文章を書く」という事について話を戻します。

この定義自体が沢山ありますが、ここでは、「説明や描写がこもった文を自発的に綴ること」を「文章を書く」と定義します。

説明は思考を表明することが出来て、描写は感情を表すことが可能です。

それは日々思ったことを綴った日記と、事務的に書かれた日誌との違いと同じかも知れません。

 

「文章を書く」ことそのものを哲学的に考察する言葉として、フランス語の「エクリチュール」があります。

この言葉、個人的にはポストモダン流行時の衒学的な匂いがして、倦厭しがちなのですが、内田樹氏が詳しく解説しています。

エクリチュールについて (内田樹の研究室)

この解説で注目に値するのは、エクリチュールという言葉を広めた旗手たるロラン・バルトに対して疑問を呈している所です。

すなわち、「分かる奴だけに分かれば良い」という高踏的な態度に対してです。

これは知識人とされる層の多くが、無意識に陥りがちな悪癖です。

「難解な事を難解な言葉で表す」というのは実は簡単で、それをさも偉ぶって公にするのは愚の骨頂であったりします。

 

では、小難しいことを文章に書く際、なにを意識すれば良いか。

ひとつ挙げるとするなら、真島昌利の名言が一助となるかも知れません。

それは何かというと「難しいことはわかりやすく、わかりやすいことは面白く、面白いことは深く」というものです。

これは文章に限らず、日頃の会話にも当てはまることだと思います。

別に詩的であれとか言うつもりはありませんが、誰かに自分を伝える手段としてモノを書く(あるいは口にする)のだから、小指の先ほどでもそういった事を意識した表現をしても良いのではないか。

「レトリック感覚 」というこれもまたスカした感じな言葉がありますが、この感覚は受け手に対する自分の思いを込めることが出来ます。

もちろん、度を超えすぎた修飾表現は疎通を台無しにしてしまうので注意しなければなりませんが、文章にせよ会話にせよ、相手があってこそ成立するものなのです。

当たり前すぎて忘れがちなことですが、もっと再認識して良いことだと思います。