静夏堂

個人的考えのまとめ。主に音楽や本や映画とかアートとかについて

理想屋の憂鬱と快楽

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                                                                    (Photo by SZK)

想が高い、というのは聞こえの良い言葉かも知れません。
それには、大いなる夢と志を抱き高みを目指している精進的な人間、といったようなニュアンスが含まれているでしょう。

ですが、掘り探ってみればこれは「欲深い奴」とも言えます。

そして理想が高過ぎる=欲深いが為に、現実とのギャップに苛まれ厭世的で斜に構えがちな態度になり、良い方向に進んでも喜びは瞬間的で「こんなもんじゃないっ!」という気持ちが芽生え更なる高み(欲望)を目指してしまう。

このような人を「理想屋」といいます。

 

なんでこんな事が言えるかというと、自分がまさしく絵に描いたような典型的な理想屋である、と嫌々ながらも強く自覚しているからです。

個人的経験からして、このような人種は基本的に理想と現実に挟まれるが故にもがき、眉間にしわを寄せては偏屈者と化しまた粘着質な矛盾にまみれた人間になり、気性の躁鬱が激しく、夕焼けを眺めてはセカイ系的な終末戦争が勃発してロマンティックな死に方をしたいと妄想を膨らますも、結局はそんな事はありえず、過去の叶わなかった約束を思い返して切なくなっては、伏し目がちにぶつぶつと呟きながら人の波にもまれて生きる者達です。

つまり、もうメチャクチャ生き辛さを覚えて呼吸する生物なのです。

 

そして、音楽や美術や漫画や映画や小説などと言ったいわゆる「芸術家、表現者」とされる人種の9割は、理想屋であると断言します。

というか、そんな人種でないと、何かを創ることなんてまずありません。

(ちなみに、残り1割は天才中の天才やアウトサイダーアーティストと称される人々のことです)

 

近い言葉として「理想主義者」というのがあります。

ですが、ニュアンスがかなり違います。

というのもこれは「主義」と標榜しているものなので、なろうと思えば誰でもなれます。

が、「理想屋」というのは三つ子の魂百までの通り、ある種の呪いをゆりかごから墓場まで背負ってゆく運命にあります。

また当然ながら理想屋というのは、いかなる現状に満足することはありません。

ですから、先述のように何か上手くいったとしても「こんなもんじゃないっ!」という思いが常に胸から吐き上がって来る。

理想屋、というよりも「こんなもんじゃない屋」といった方が適しているかもしれません。

岡田斗司夫著の『人生の法則』によると、人間というのは「理想型」「注目型」「指導型」「法則型」の4タイプに分別可能である、とのことです。

これには賛否両論あるのですが、自分は的を得た分別法だと思っています。

少なくとも自分には大いに当てはまるし、身近の人々を眺めていてもかなり合致します。

自分がどのタイプなのか診断テストが出来きますので、一度試されてみてはと思います(ふのい倉津浦 (id:fnoithunder)さん、情報提供感謝です)。

FREEex: 4-types Determination Test(Japanese)

言うまでもなく自分は「法則よりの理想型」となりました。

他の3タイプは何かというと、「注目型」はアイドルみたいに人々の視線を常に浴びていたい人、「指導型」は経営者みたいに指示を無意識にしてしまう人、「法則型」は学者みたいに理屈をこねて本質を探ってしまうような人、とのこと。

で、この4つは右回りと左回りに回転し、例えば理想型は機嫌が良い時は注目よりになり、逆に悪い時は法則よりになるといいます。

そして対偶関係にあるもの、つまり理想と指導、注目と法則は基本的に分かり合う事が出来ない。

ただし、その2つが合致した場合、双方ともうまい方向に働くといいます。

スタジオジブリで言えば、宮﨑駿と鈴木敏夫プロデューサーの関係が1番分かりやすいかと思います。

(ちなみに、対偶役が居なかった富野由悠季が長く不遇を味わった天才と言われるのはそれ故でしょう)

理想屋はどんな奴らなのか有名な具体例を挙げてみましょう。

先にも記したように、表現者とされる人々のほとんどはそうです。

アニメ監督でいうと、宮崎駿富野由悠季庵野秀明押井守といった人たちの顔を見ると分かりやすい。

歴史に残るレベルの作品を創ってしまった大成功者にも関わらず、みんな本当に苦虫を噛み潰している顔をしており、決して幸せそうには見えません。

 

そして何より、三島由紀夫を挙げます。

三島についての記事を書きためている最中なのですが、彼の事を思うとかなりのシンパシーと同時にどこかナンセンス性を感じてしまいます。

まず彼がコンプレックスの塊だということ。

例によって理想屋はコンプレックスの塊な連中ばかりですが、三島の場合はさらに特殊です。

一気にまとめると以下のようになります。

官僚一家に生まれ祖母から溺愛されて育ち、まだ華族御用達な学校だった学習院に通って首席卒業して父親の願望実現のため東大法学部へ入り大蔵省に入るも1年で辞めて、専業小説家になりすぐさま流行作家となってはノーベル賞候補に昇りつめるも、貧弱な容姿が気にいらず肉体を鍛えまくっては写真集の被写体となったり映画に出ちゃったりしたりし、「果たし得ていない約束」があるために最終的には民兵組織を結成し1970年という戦後日本の成長期の頂点といったような年に自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決する、という人生。

よく言われているように、彼のコンプレックスの1番の要因は戦時中での体験でしょう。

同じ年頃の若者たちが神風となり英雄として死んでゆくのに対し、自分はエリート坊っちゃんの身分をもって工場で勤労動員している。

少年時代に「聖セバスチャンの殉教」の絵を見て以来、英雄的な死に方に憧れていたのにも関わらず、それを現実で実現できるチャンスを逃したわけです。

だた、そんなコンプレックスの塊が故に、現実では叶わなかった理想世界を描きそれらが歴史に残る作品と成り得た、と言えるのですが。

(三島についてはやはり長くなるので、また改めて記します。)

では、そんな苦虫を噛み潰してばっかりの理想屋は憂鬱にまみれてばっかなのか、というと当然そんな訳ではありません。

「何事にも代えがたい快楽を味わえる時がある」という特権があります。

それはどんな時かというと、「理想が小指の先ほどでも実感として掴み得た時」という単純なものです。

ただし、それがいつ来るかは当然予測不可能で、神のみぞ知るといったもの。

比率で言えば、憂鬱を99として快楽は1といった感じでしょう。

ですが、その瞬間的な快楽はそんな憂鬱を遥かに上回ります。

でも瞬間的なものなので、麻薬中毒者のように「こんなもんじゃないっ!」と次なる理想をまた追い求めてしまう。

 

そんなわけで、今書いているこの文章そのものに対しても「こんなもんじゃないっ!」という歯痒さを覚えつつ「もっともっと頑張らねばならない」、という気持ちを改めて抱いてこの記事を締めたいと思います。