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静夏堂

個人的考えのまとめ。主に音楽や本や映画とかアートとかについて

観光地の宿命−古都を巡って

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                                        (Photo by SZK)

都と奈良という2つの古都を、数日ほど巡って来ました。
両方共、初めての地です。

常々行きたいと思っていましたが機会に恵まれず、今回やっと足を踏み入れた次第です。

 

はじめに、総括的な印象を記します。

それは両地とも、「古都という名を冠した徹底的な観光地」である、という事です。

これは改めて言うまでも無いこと、と思われるかも知れませんが、想定していたイメージと実際に足を運んで体験するのとは、全くもって違いました。

本当なら人数が少ない時期に行きたかったのですが、事情的にお盆休みの真っ只中という恐らく1年でもっとも観光客が集まる時期に足を運ぶことになりました。

様々な言語が飛び交い、東京より外国人や他県からの人々が目についた気がします。

そして自分もまた、否応なくその観光客達の中の1人に含まれる、という事を認識した上での印象です。

どちら共、有名所とされる場所は時間と体力の許す限りひと通り廻りました。

共通してまず感じた事は、何故どこもかしこもここまで拝観料を取るのだろう、という事です。

もちろん、建物の維持や修繕に当てるため、という名目は分かるのですが、国内外から幾千も集う場所に入るために、なぜ500円程も取るのか。

国宝でかつ世界遺産なのだから、公的機関からの補助金はそれなりに出ているはず。

にも関わらず、高額な値段では決して無いけれど、どこか計算されたような金額設定に、「歴史の商品化」のにおいを強く嗅ぎ取ってしまいました。

 

二条城に関しては、納得出来ます。

現代では住む主の居ない完全に役目を終えた場所ではありますが、家康による将軍宣下と慶喜による大政奉還、という江戸時代の始まりと終わりの地であり、極めて歴史的な判断が下された場所です。

それがそのままの形で一般に公開されているのは有意義です。

役割としては、博物館に近いでしょう。

 

ただ、その他多くの寺院は仮にも宗教施設で現役の霊場です。

自分の見識の浅さを留意した上で記しますが、そういった場所は基本的に庶民の為に開かれた場所ではないのか。

これらの多くは、権力者の誇示の象徴として造られたものではありますが、本質的には来る者拒まずな場所であるはずです。

なので、拝観料という名の金銭による階級差別な寺院というのは、本来の役割を失った場所で完全にテーマパークとして消費されている、と言えます。

自分はこの先、金閣寺銀閣寺や清水寺などには、もう行くことは無いでしょう。

美しさのあまり金閣寺を燃やしたくなる気持ちなど、これっぽっちも湧きませんでした。

仮に行くとしたら、フィルターを通しに通した自分の価値基準で眺められるほどの眼識が付いた時ぐらいだと思います。

その点、本願寺は東西とも拝観料などは取らず自由に出入り可能で、他の寺院でみられる土産屋のような御守売り場などもありません。(専門の書店はありますが)。

後で調べてみると、これは宗派の教義によるとの事です。

寺中に入ると、数百以上の畳が広がり、信徒問わずの説法が行われていました。

建物と敷地は、言うまでも無く圧倒的な迫力があります。

そして何より自分が良いと思ったのは、境内で近隣住民らしき人が涼みながら談話していたり、中には昼寝をしていた人も居り、庶民のための憩いの場または拠り所として現役で機能している、と見えました。

自分もその辺りに住んでいたら、毎日の散歩コースとするでしょう。

京都の碁盤上の道を歩き眺めていて、想定していたのと決定的に違ったのは、古都とされるこの街が、あまりにも郊外の形相をしていたという事です。

古びた木造建築がちらほらとあるものの、大部分は鉄筋コンクリートで出来たマンションと兎小屋のような建売の一軒家が立ち並ぶ。

コンビニやファーストフード店は散見され、駅前には当然のごとくイオンが鎮座している。

そして我々もまた、悔しい気持ちを覚えながらも、どこか安堵しながらチェーンの居酒屋に入ってしまう。
いつかは祇園の料亭に入りたいなぁ、と語りながら2時間飲み放題コースを哀しくも豪快に呑み上げるのが、せめてもの抵抗でした。


「郊外の形相」とはつまり、全国どこにでもある風景です。

自分に関して言えば、田舎でも都会でも無いニュータウンという地で長らく育った為、「郊外っ子」という意識があります。

なので、京都にはそんな郊外とは違った街並みがあるはずだ、という刷り込みと期待が強かったと思います。

が、蓋を開けてみれば、大きな道それも道路拡張の為に立ち抜きされたと思われるコンクリートで固められた道が続き、そんな中にぽつりぽつりと千年の遺産物がある、といった感じでした。

「歴史の匂いがする」といった感慨深いものは、全くもって抱けませんでした。

そういった点で言えば、むしろ東京の日本橋の裏道や下町界隈の方が、個人的には趣深さをよっぽど感じます。

2つの古都、特に京都を歩いていて、どこかと雰囲気が似ているなと思った地があります。

どこかというと、沖縄です。

かの地も国内で五本指に入る観光地な訳で、自分は昨年数年ぶりに訪れました。

周囲の様変わりもさることながら、さらに度を増した観光客へ向けた両手の皺寄せには、京都のそれと比肩します。

特に、古くから最高聖地とされる斎場御嶽の有り様には、辟易としてしまいました。

世界遺産登録による観光客の増加、それに伴った有料化、そして整備によって逆に荒廃している森林たち。

ここは本来、琉球国王ですら男子禁制の地であり、ノロという女性司祭が祈りを捧げる場所でした。

緩和されたその後も、地元住民の祈りおよび拠り所として機能していたそうで、つまり現役の場所であったというのですが、観光客激増によってそういった人々も近寄らなくなったと言います。

全くもって行政側の問題であり、役人を呼び出して怒鳴りたくなったほどです。

 

逆に、観光客の態度にも首を傾げてしまう光景を多く目にしました。

戦跡の地として最も有名なひめゆりの塔防空壕をバックに、笑顔にピースで記念撮影をしている観光客。

もちろん彼らも、悲劇の地としてそこを訪れ痛々しく残るその防空壕と資料館を眺めては、様々な想いを馳せたりするのでしょうが、大半は娯楽的感動を求めていると思われます。

そして周囲には、国際通りなどに腐るほどある土産物店。

これは資料館にも記されていたのですが、戦後間もない時期から問題視されていた事象だとのことです。

過去の遺産や風景を売り物にしている事に、強く反対しているわけではありません。

観光客が来ることによって経済が回り、それが建物の保護や修繕に当てられ、地元住民の生活の糧の1つとなり、そして何より訪れる者にとっては貴重な体験となって視野が広がる機会を提供してくれます。

しかしどうしても違和感を覚えてしまうのは、どこもかしこも過度ではないか、ということです。

夏の夜空に壮麗な景色を、といってライトアップが施されていたのですが、日中に寺院の目の前の立ってみると、その設置の為にグルグルと電線が巻かれているのが目立ち、一体何を保護しているのか理解に苦しみました。

主催側からすれば、タワーや高層ビルといった近代建築のライトアップと同じ扱いなのでしょう。

観光地化される、というのはその地の価値が広く認められるという事です。

と同時に、外部による価値付けと利益優先という内部事情の露見でもあります。

そして外地から来る人間は、ガイドブック的なものに操られて有名所をとりあえず廻り、意味もなく消費する。

これは観光地ゆえの宿命といえます。

そして誰も見向きもしなくなったら、荒廃が待っています。

そうだ 京都、行こう」というコピーに代表される、利益優先の臭いを放ちだす過度の観光地化の弊害は大きいと感じました。

 

また、これは観光地に限った話ではありませんが、多くの人は文化財などを「重文だから、国宝だから、世界遺産だから」といった刷り込みの眼をもって、とりあえずありがたく拝んでしまう。

これらが念頭にあるとどうしても縛られた見方をしてしまい、他のものを軽率に眺めてしまいがちになります。

つまり視野狭窄に陥る。

結果として自分の中の価値判断は消え失せ、とりあえず見た、で終わってしまうのです。

もちろんこういった制度はある程度の参考にはなるのですが、賛否両論があり自分も疑問を抱いている所なので、また改めて考えてみたいと思います。

ここまで後ろ向きな内容になってしまいましたが、結果としてはどちら共行って良かったです。

実際に現地に向かう事によって、歴史的文脈を更に勉強し目眩がするほどある寺院や仏像といったものを見る眼識をもっと高めたい、という思いを強く抱かせてくれました。

 

最後に、気に入った所、また行きたいと思った所を挙げておきます。

先述しましたが、建物としては本願寺で、風景としては哲学の道鴨川沿いです。

そして奈良公園

ここは、シカが本当にあちこちに居て、排泄物が散らばったりしているものの、広大で豊かな森林の下で、野生動物ながら長い間人間と共存している風景を目にする事が出来ました。

これらは「自分が住んでいたら散歩コースにしたい」といったもので、多分それが自分の中での良い観光地とされる場所の価値基準なのかも知れません。