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静夏堂

個人的考えのまとめ。主に音楽や本や映画とかアートとかについて

祭りと祈り

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りの季節です。
うちの近所の神社でも、旧暦に合わせた例大祭が行われています。

自分は昔から祭りというのに惹かれて来ました。なぜかと考えてみると、やはりお正月や結婚式同様「ハレ」すなわち「非日常」を感じられるからだと思います。

祭り囃子が響き渡り、安っぽいけど綺羅びかに並ぶ屋台があり、威勢良く神輿を担ぐ人々がおり…と男も女も子供も老人も一体化し、ハレの世界を刹那的だけど楽しむ。

混沌と多様化が進む現代社会で、老若男女が一体化し共有的に楽しめる唯一のものが、この「祭り」かもしれません。

そしてそれは東西南北、太古からあったその光景と変わらないでしょう。

意外と忘れがちですが祭りというのは本来、信仰的宗教的なものが核にあります。

日本の場合、我々が真っ先に想像する祭りといえば神社周辺で行わるもの、すなわち神道に則った祭です。しかし広く見れば、盆踊りは仏教の念仏踊りからだし、クリスマスや謝肉祭(カーニバル)もキリストの祭礼からだし、ユダヤでもイスラムでもヒンドゥーでも、恐らくほぼ全ての宗教や民族には祭りというのがあります。

当然ながら様式、ニュアンスは各々違います。しかし根底にあるのはどこも「日々の生活への感謝と、豊穣への願いと祈り」です。

そしてこの意味合いと機能は、我々の先祖たる原始人が行っていたそれと同じなはずです(それがいつから始まったかは詳しくは分かりませんが、埋葬を始めたとされるネアンデルタール人あたりから、すなわち10万年まえから始めたのではないかと思います)


人がなぜ祭りをするのかは、上記の記述で収めることが可能かと思います。ですが、もっと掘り下げてみましょう。

フロイト大先生が祭りについて、人間の自我的側面から論じた興味深い記述があります。

原始人の祭りとは「普段は神聖化されているタブーを犯して、ありとあらゆる放縦に終わる」ことである。

『集団心理学と自我の分析』(1921年)

つまり、祭りとは淡々と過ごす禁欲的な日常から開放され、ハレの世界=躁状態になる事を公的に許された機会だ、ということです。そして、終わりに近づくにつれタブーを犯す衝動が頂点に達しそれを発散させる。

祭りの夜などは、泥酔して騒いだり、男女の仲が深まったり、暴走族が出現したりしますが、上記に則ればそれは理に適った行為なのです。

また祭りを特徴付けるものの1つとして「参加者一体型」であるということです。逆にいえば、参加者が居ないと成立しない。そして参加者を役者とする。また神輿を担ぐ人々だけがメインキャストでなく、その場に居合わせる全ての人が揃って祭りという劇が成立するのです。

これからの表現形態はこの「参加者一体型」がメジャーなものになってゆくと自分は考えています。音楽や演劇といった媒体は特にです。なので、そこら辺の観点からして祭りを眺めるのは、これからを見据える良い素材になるかと思います。

さて、ここで祭りの根底にある「祈り」について記します。

この頃、自分はこの「祈り、願い」の行為機能について深く考えるようになりました。きっかけはよく分かりませんが、やはり祈りたい事がある、叶って欲しい事があるからで、そんな思いが年々強くなっているからだと思います。

いくら医学が進歩しようと現行では治癒しない不治の病はあるし、試験で合格するのは確実では無いし、良い人生を歩めることの確証は無い。また、不幸な事件事故はいくらでも起こるだろうし、戦争も無くならないだろうし、自然災害で人類が消滅するかもしれない。

そんな事への抵抗として、人間が日々の生活を送りながら出来る身近なことと言えば、祈りと願いなのです。そして、日々生かされていることへの感謝。

そんな思いを実地的に伝えようと、人は拠り所を作って来ました。それは岩石や大樹から神話の神々を祀る神殿、ブッダやキリストやムハンマドといった実在した開祖の祭祀施設などです。

卑近な例を出しますと、自分のいつもの散歩コースには神社があります。そこへゆく度に、外界とは明らかに違った緑生い茂る澄んだ空気を味わい参拝するのは、やはり心が晴れます。

かといって、自分の事を宗教的な人間であるとは全く思っていません。むしろ、特定の信仰とは違ったニュアンスの位置にいるかもしれません。

自分は今までもそうであったように、これからも特定の宗教の信仰者になる事は無いでしょう。ですが、「神聖な何かへの、拠り所になる何かへの祈りと願い」は一生やってゆくと思います。というのも、自分は拠り所や祈りを必要としないほど、強い人間では無いからです。

なので、物理的に神や心霊が居るかとか、願い事が叶う信憑性が科学的にあるかどうかなんて、そういう意味ではどうでも良い事だったりします。

これからの世の中は、「相互理解」が益々重要になってくるでしょう。そういった意識姿勢を身につける素材の1つとして、宗教の成り立ちや意味合い、そして様々な宗教を知ること、すなわち比較宗教学な事をもっと学んで良いはずです。もっと言えば義務教育の教科の1つにあっても良いはず。

ですが、日本人には妙な宗教アレルギーがあったりします。日本ほど宗教的な国は無い、と言われたりもするのに、誰かが(特に芸能人が)特定の信仰(特に新興宗教)をしていたりすると、どうも異端視してしまう。もちろん、しつこい勧誘等は自分も御免被りたいものですが、何かを信仰するのはその人の自由であり、異端扱いして排他的に捉えて良いものでは決してありません。

冒頭の祭りについて戻って記事を締めますが、先述の通り自分は祭りが好きで、行ける限り足を運びます。

ですが、神輿を担いだり催しをやった事、もっと言えばやぐらの周りで盆踊りしたことすらありません。常々、そんな光景を傍観し、串物でも齧りながらその場の雰囲気を味わうぐらいです。

おそらくこれは、自分に特定の出身地が無いという事に起因しているかと思います。各地を転々として育ってきたので、地元といえるのが無いに等しい。なので、「どうせ自分は根無し草だしな」という思いがどうしてもあって、能動的に参加出来ないのです。

ですが、その地域で共に生活している一員だという意識は強く持っていますし、祭りという機会をもってそんな思いを共有したいと参加する度に思います。

他所の地に行った際も、祭りが行われていたら、やっぱり足を運んでしまいます。ワクワクするからです。

人よりどこか楽しめない自分なりの、楽しむ機会を得る行動だったりするのかな、と近く行われる祭りを楽しみにしながら思ったりしています。