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静夏堂

個人的考えのまとめ。主に音楽や本や映画とかアートとかについて

生徒会長的人間への嫌悪と回路の模索.人と人の間で生きることについて.3

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                                                       (Photo by SZK)

類嫌い、を誤解を恐れず公言している自分ですが、なぜそう考えてしまうのか内省したり、また人と接する機会にも以前と増して積極的に参加するようになったり、他者への理解とお互いの関係回路の模索等を自分なりにしています。この場で、こういった文章自体を記し発表しているのもその1つであります。

その模索の過程の大きな要素として、自分が最も「嫌いなタイプの人間」について書かざるを得ません。決して愚痴や悪口等では無く、自分なりの解釈および理解への模索のための備忘録である事を留意の上でお読み頂ければと思います。

 

それで、自分は果たしてどんなタイプの自分が最も嫌いか。明解としています。

それは「生徒会長的な人間」。

どういう事かというと、「自分は人より頭が良い。なので、周りの人間を操ることに長けている。というか操りたい。つまり、指導者である。だから生徒会長的立ち位置が適役」と自負しかつそんなオーラが出まくっている人です。業種で言えば、政治家や官僚や経営者や教師とされている人が代表格しょう(決してそのような業種の方々を批判しているわけではありません。誤解無きように。)

 


例によって岡田斗司夫人生の法則 「欲求の4タイプ」を参考にしますと、こういった人々は「指導型」となります。

それで、なぜ自分はそのようなタイプが嫌いなのか?

これも簡単で、人を「機械的」に扱い、前述した「俺って他より賢い!」というオーラ出まくりで、ユーモアが足らず、人のことを「馬鹿とハサミは使いよう」と捉え、自分に関係や興味が無い人を「軽率に扱い」見下した目線をするから、です。もうこれら全ての要素が、自分みたいな人間からしたら絶対許せないし、生理的に相容れず、死ぬほどムカついたりします。

 

……が、よく考えてみると、自分みたいな人種以外でも嫌われる要素満載です。なので、少なくとも自分が見て来た限り、このような人達の事を「あいつ頭は良いけどね…」的な印象は持たれるものの、信頼どころか好かれている光景を見たことが無い。というか、完全に嫌われている。

で、さらにイタいことに彼らはそんな事を基本的に気にしません。何故なら、人は「機械」なんだし、他に代わりになる奴は居るし、という思考回路を有するから。

だがしかし、自分が推し進めたい事があって賛同が必要な場合、小賢い彼らは巧妙な手口と口車を走らせて、票集めをします。

つまり、普段我々が政治家に抱くイメージそのものなのです。そんなマイナスイメージを抱かせてしまう根拠は、上記の事で説明が付くと思います。

政治家に限らず、堀江貴文勝間和代のような人々が登場すると「何かイヤな感じ」という印象を多くの人が持ってしまうのはそのためです。

批判的な事ばかり書いていますが、彼らみたいな人種が居る必要性も了解さぜるを得ません。というのも、社会を構成する上で、人にはそれぞれ役割があり、大なり小なり、組織というのを回す以上、調整し指導しまとめる役が居ないといけない。だから、学校には校長がおり、会社には社長がおり、国には宰相が居るのです。

機能的にはカーナビ的なコンピューターであり、なので彼ら自身が実は機械的な人間だったりするのです。だから、他者の事も機械に映ってしまう。つまり、馬鹿とハサミは使いようで人も同じ。そこら辺からして、彼らは性善説の立場を取ります。ちゃんと操れば人は上手く動く、結果世の中が良くなる、と。

逆に、対極に当たる自分みたいな理想型な人種の事を、彼らはどう見ているか?

推測するに、「コイツら、基本的に即戦力にならねぇんだよなぁ。たまに面白いこと考えるけど、大半訳分からんし。偏屈で腰重いし、俺の言う通りに動かんし、むしろ歯向かってくるし。だからあんま興味無い、勝手にやれば。何かに使える時は呼ぶけど」みたいな感じかと思われます。

で、そんなことが、付合ってゆく上でお互い薄々察して来ます。なので、基本的に分かり合える事はまずありません(でも、そのあたりは以心伝心可能な矛盾は面白かったりします)。

が、この両者がタックを組むと、比類無いほどのパワーの塊と化し、時に歴史を変えます。例えば、アドルフ・ヒトラーとその両腕となったゲッベルスヒムラーの関係(ちなみにヒトラーは指導者というより、理想型の要素が大きいと思います。理想と指導の対極合併型で、スティーブ・ジョブズと同系列でしょう)

文化芸能的には、絵描きと画廊や映画監督とプロデューサーの関係です。代表例は以前も記しましたが、ジブリ宮崎駿鈴木敏夫(余談ですが、もし富野由悠季にも鈴木敏夫みたいなのが居れば、アカデミーどころかノーベル文学賞をとっています)。

ここで、コンサルティングし助言を与え人を操る彼らに、あえて提言します。

それは、笑いの間を研究し、「計算していない」おもしろキャラになることです。

もちろん、小賢しい彼らは、笑いの重要性を認識はしています。その場を和らげようとし、自分は頭良いだけでなく面白い奴ですよ!とアピールするため、時折ジョークを飛ばす。が、それが死ぬほどつまらない。スベるとかの次元ではありません。なので、大抵受けないか愛想笑いで終わります。そこでの彼らの心の中での常套句は「ココ、笑いどころですよ!」。

つまり、バラエティの寒いテロップ的なものに近いのです。

 

笑いの間を習得し、「計算していない」おもしろキャラになること。これは非常に高度な技術が要請され、かつ場数を踏む必要があります。

堀江や勝間あたりの人が、以前より印象が良くなったなぁと個人的に思うのは、これをクリアしたからです。両者の最近の言動を見てて共通しているのは、仕事に限らず趣味ややりたい事についてもムチャクチャ正直に向き合っており、それを熱心に語ってる所です。その正直さやノリの良さやありのままさが、場を踏むごとに「計算していない」笑いを生み、好印象に繋がるのです。まあ、あそこまで有名になると、メディア登場時にあった粋がり感が消えた、つまり「垢抜けしたから」とも言えるのですが。(ホリエモンに関して言えば当初からそこら辺を自覚しそれが世間に伝わっていたら、あそこまで嫌われず、かつ逮捕までされなかったでしょう)

そんな超絶技巧を身に付ける為のロールモデルとして、まずビートたけしを挙げます。

現在のお笑い芸人としての彼は、その全盛期と比べると面白い部類には入りません。

が、貧乏な庶民から国内外の著名人まで幾千と関わってはその頂点に立ち続けている故に得た眼識と姿勢から、我々一般人でも学べることは多い。彼があんなに毒舌キャラを通し続けてきても、日本一モノマネされ、かつ理想の上司ランキング等で数十年間トップに挙げられているのがそれを物語っています。天才の一言で片付けたり、ただ憧れるだけでは勿体無い。

なので、『人を動かす』的な本を読んでは自己陶酔に耽る暇があったら、ビートたけしみたいな人からはその姿勢を、また他のお笑いの勉強をしましょう(ただし、松本人志の真似はしてはいけません。あれはまた違った惑星の人間で、常人がその姿勢思考に染まると大火傷を負います。その点、日常生活を送る上で多く学べるのは浜田雅功の方です)

そんな生徒会長的な人種が死ぬほどキラいな自分のような人間は、彼らとどう接してゆけば良いか?

2つ考えられます。

1つは彼ら以上に面白い事を考えて間を操りかつツッコミを入れてあげること。彼らは実は、ツッコミに飢えています。クッソつまらない事を言った時は、口直し的な面白い事を言ってあげるか、それを笑いに変えて場をおさめるツッコミ力を身に付けましょう。ある種、上記以上の超絶技巧を身に付けるしかありません。

もう1つは先述した通り、一緒に出来る事を探し共闘しましょう。自分が持ち得ていない器量やその「失敗しようが何だろうが、とりあえずやるんだ!思い立ったが吉日」なアタック精神からは、偏屈に固まりがちで理想と現実のギャップに苛まれ1日数回はロッカーを蹴りたくなるような自分みたいな人間からしたら、見習える事が多いのです。

「こんな奴らキラいだ。もう付き合わん!」と口にして実際そうなってしまうのは簡単です。当然、人間関係でストレスが溜まってしまうのは辛いもの。が、だからといって安直に遮断するのは、思考停止であり甘えでは無いのか。

 

以前も記しましたが、これからは「相互理解」が今まで以上に要請される世の中になります。これは、中東情勢を中心とする国際的なものから、身近な人間関係からでも見て取れるでしょう。

なので、相容れなくとも「他者とはなにか」という思考と、その関係の回路を模索をする姿勢を抱くことが必要となります。ただし、その悟りに近い答えは一生かかっても出ないでしょう。ですが、人と人の間で生きる上で絶対に必要だし、一生かけてやる意義はこの上なくあります。

 

人と人の間で生きるシリーズ↓