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静夏堂

個人的考えのまとめ。主に音楽や本や映画とかアートとかについて

アニメの下克上とビルドゥングスロマンの終わり

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ニメをリアルタイムで観ることが少なくなったのですが、最近映像を考える事情になりザッピング的にですが往年の名作を観たりしています。宮崎・富野の2大スターを中心軸に広げてゆけば、日本のアニメ史は一通り把握できるでしょう。

アニメ・マンガ等の所謂サブカル批評は腐るほど散見されていますが、自分は基本的に目にしていません。深い理由は特にありませんが、どうもスノッブ臭いというか衒学的なこじつけ感を覚えるというか。

ですので、ここでそんな類の批評染みたことはしませんし、そんな技量もありません…と、毎回そんな予防線的前置きをしていてそろそろ嫌気が指して来ましたが、色々思う事があるので、付け焼き刃なりに私感と推論をまとめます。

 ◆熟年大国日本、故に

色んな物言いがされてますが、我が国は戦後奇形的に近代化を達成し成熟しました。で、熟したにも関わらず未だ成長過程であると幻惑され、世界のトップを走らされています。

人間でいえば、更年期まっただ中のオジサンオバサンであるにも関わらず、終わりのないリレーをしている。もしくは怖い教官(欧米とか中国先生とか)と可愛い後輩達(発展途上国など)の目があるから、やらさられている。

悲惨なことに、そのヨレヨレのランナー達は足腰痛んでいて無理をしているのに気付きながらも「オレ達はまだ若いんだ!まだ走れるんだ!」と自分を騙しながら走っている…そんなのが、日本という国とその国民たる我々の現状だと自分は感じます。

 

そんな熟年大国日本が世界に類を見ない娯楽表現媒体を有しており、そのトップはアイドルとアニメです。

なぜ、これらがこうも興隆したのか?

多分、熟したが故に「若さと成長」への「憧れと飢え」を覚えているから、だと思います。不思議なことにこの感覚は、若ければ若いほど敏感である。自覚的にしろ無自覚にしろ、「これ以上、この国が成長する事は無い。成長しない国で、自分たちが成長するって何?」と疑問を抱く。それでも「成長出来ないかも知れないが、溌剌と成長してゆく誰かの姿を観たい!それを応援する事によって、幻かもしれないけど自分も成長世界に居ることが確認できる!」という欲求が生まれ得る。結果、アイドルにハマることが出来る。

アニメに関して言えば、基本的にリアルでは醒めてしまうからか「辛さなんて無く楽しくてカワイイカッコイイ少年少女たちの日常生活を垣間見たい、その世界を傍観している住人でいたい」から日常系アニメが流行る。もしくは、「成長できない自分達」を反映したような主人公たちを自嘲気味に描くメタフィクション的な作品が流行る、のでは無いかと思います。

(…冒頭にも書いたように、時代情勢と娯楽を絡めた考察はこじつけが過ぎ論理破綻をきたす嫌いがありますが、やはり自分もそんな論調になってしまいました…)

◆アニメへのコンプレックス

昨今の邦画等の実写作品を観ていて感じることの1つに、「創り手はアニメへのコンプレックスがあるのではないか」というのがあります。これは中々不思議なことで、数十年前だったらまるっきり逆です。

アニメというガキ向けの表現媒体をいかに映画に追い付き追い越せるか?いかに文芸的に出来るか?…。1970年代までのアニメ制作者のほぼ全ては、そんなアニメの社会的地位と実写映画に対するコンプレックス、それを覆す反逆的野望を抱いていたと思います。

で、80年代に事実上その下克上が成功します。ガンダムが生まれジブリが生まれガイナックスも生まれた。

まだまだアニメの地位は低い!という声も聞こえます。確かに商業的な側面の不利やファッション的な後ろめたさがあったりするのでしょうが、多くの現代人の人格形成を作った強力な要素の1つであると言えます。

極端なことを言っちゃうと、黒澤明の映画より今のアニメの方が、現代の多くの若者にとって価値が高い。マンガ>文学のそれと同じで、多分これは間違いない感覚だと思います。マンガ、アニメは記号性が高いから云々…と話を掘り下げれますが、長くなるので省きます。

◆時代とのシンクロ

表現というのは時代から逃れられず、絶対的にシンクロします。80年代から今に至るまでの代表的作品3つを例に記してみましょう。

ガンダム(ファースト)→何か分からないけど戦いになった、嫌々戦わされる。でも最終的には成長する主人公。人と分かり合えるかもしれない…という希望を抱きながら。受け手→「カッコイイ!なんかスゴい厚みがある…アニメって良いなぁ」→作品が時代を要求した。

エヴァ→嫌々戦わされるまでは同じ。でも最後まで成長しない。他人って何なんだ、自分って一体何なんだ!!…まあ、いっか…という諦観。受け手→「自分も同じ心境だ…!何か救われたような…」→時代が作品を必要とした。

まどマギ→拒否できない契約を結ばされ、大義ある戦いを仲間内で嫌々してしまう、しかも無限ループで。「美少女たちが絶望しながらも闘ってる、見えない希望のために…。この感覚を共有したい…」→時代状況と決定的にシンクロした。

進撃の巨人に関して言えば「うわぁ…オレ達喰われちゃってるよ…うわぁ…どうしよう…。…でも闘いながら謎を解明しようとしている、希望を掴もうとしている…!」というのが受け手の感覚かなと思います。

◆目線アングルの変化

昨今のキャラの描き方の特徴に、「目線が受け手と同じ位置にある」というのが挙げられるかと思います。

ガンダムはじめ富野演出は、基本的にアオリ(カメラを下から)で描きます。アオリで撮ると、画を「劇的」に出来ます。これは、いかに映画に追い付けるかと拘り貫いた粉骨の策でしょう。その結果、登場人物たちが勇ましく映る。ただ、視聴している側からすると、アオリの画は劇的な描写を味わえると共に、威圧感も必要以上に覚えてしまいます。観る側はどうしても下から眺めてしまうので、弱体化している現代の受け手からしたら、辛くなって置いて行かれたような気分になる。

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エヴァになると、俯瞰よりな人物描写が目立ちます。極端な俯瞰でなく、「ボクを見て!」と子供が大人にお願いするような目線。このおかげで、エヴァには「大人が居ない世界」の形成の一翼を担います。で、受け手からすると「自分はそんな下から目線を受け入れられる立場(=大人)じゃない…」といつからか感じるようになる。

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で、2000年代に入ってから現在に至るまでの所謂「萌え絵」の多くは、受け手と同視線の真正面な目線で描かれています(目高というアングル)。加えて極端に目が大きく描かれ、猫を愛でるように眺められる、つまり癒しを覚える。結果「自分を見てくれている!その瞳に吸い込まれそう…」という効果が得られる。

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役割としての効果は真逆のキャラですが、キュゥべえに至ってはこうです↓

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主人公も少年から、少女へ。そんな少女たちを主役にしたまどか☆マギカは、絶望し傷つきながらも掴めない希望の為に無限に戦う…という作品。踏み込んだ推論をさらにすると、我々受け手は恐らく、そんな少女たちが戦う姿を見て、被虐性と加虐性なものを同時に、つまりSM的な快感を無自覚に覚えているような気がします。「うわぁ、この気持ち分かる…辛さが分かる…」というのと「うわぁ、傷付けられている…。でも何かスカッとする、観ていて気持ち良い…」という感じです。戦う美少女モノ云々については斎藤環先生が書いているので、興味があったら御一読を→戦闘美少女の精神分析

 

多くの現代日本人は伏目がちです。自分も例に漏れず、人と目を合わせるのが怖かったりします。でも「誰かに見て欲しい」という欲求はあり、むしろ強くなってさえいる。そんな埋め合わせをしてくれる1つが、目線を合してくれる目の大きい美少女キャラたちなのかも知れません。

 

教養小説的な作品はもう描けない

ビルドゥングスロマンと呼ばれる小説ジャンルがあります。教養小説と訳されていますが、簡単に言うと「主人公の成長物語」です。児童文学の延長線上にある思春期〜青年期向けと言いますか、逆境を乗り越えて成長する話が中心で基本的に道徳的で健全なものです。

自分が知る限り、完全オリジナルでその路線のアニメを生み出せたのは、ファースト・ガンダム時代の富野由悠季だけだと思います。富野、宮崎などの世代の創り手は「アニメは子供のもので、健全であるべき」という意識が核にあるのですが、宮崎作品にはビルドゥングスロマン的なものは基本的にありません。『未来少年コナン』にも原作があります。高畑勲に至っては完全に芸術作品となってしまい、もはや子供的大衆的な視線で楽しめるものでは無い。

で、先にも描いた通り、「ガキ向け」と見下されていたアニメでも文芸的な厚みのある作品を創れるのだと証明し、文学以上に影響あるものとしてしまったのが、ガンダムからであり、その生みの親富野由悠季が「販売促進のためのアホみたいなロボットアニメ(富野談)」という制約の中ガチガチに縛られながらも、ほぼ1人で築いた。つまり、アニメの格上げを宮崎駿ら以上にやってのけた。

そんな意味で自分は、富野由悠季ボブ・ディランと同位置においています。ディランはガキ向けで不健全なRock(軽音楽)とされていたものを、文芸の地位まで持ち上げました。つまり、両者とも革命を起こしたのです。
(ちなみに、富野も宮崎もディランも同い年(1941年生まれ)であると付け加えておきます)

 

さて、そんな文芸的成長物語なアニメが連綿と続くかと思えば、国の成長と共に終わりを迎え、エヴァで完全に破綻の露見がされた。アニメに限らず、今後共そういった成長物語的なものは出来得ないし、出来たとしても流行しないと思います。理由は上記に書いた通りです。成長を経て熟したが故に。

そんな状況と系譜を踏まえてみると、アニメという表現媒体の最先端作品が、今のところ『まどか☆マギカ』だと考えられます。というかこの作品が、ある種日本的アニメ表現の限界では無いでしょうか(そんな事エヴァの時にもよく言われていたそうですが、まどマギは色んな意味でギリギリかと)。「アニメ大国ニッポンを世界へ!」と頭の鈍い役人達が喧伝していますが、こんな状況でどんな作品が生まれるのか、生み出せられるのか。

 

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