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静夏堂

個人的考えのまとめ。主に音楽や本や映画とかアートとかについて

大人になっても分かるな

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人になれば分かる、とはよく耳にし自分も時たま言われる事です。人生経験が豊富な目上の方からしたら、下の者の言動はどうしても幼く映ってしまう。でもオブラートに包んだ表現をしないといけないので、極力穏やかに諭されます。だから自分も、虚心坦懐にしっかり耳を立てるようにはしています。

人と触れ合い痛さを体験し年齢を重ねた後、「あの時は若かったが、今となれば大したことなかった」と思うことがほとんどでしょう。これは確かに「大人になれば分かる」ことであり、逆に年をとらないと分からない。内面的に成長するという事でしょう。


が、時折「これは大人になっても、分かってはいけない事ではないか?」と思うこともしばしばです。これは直感的なものであると同時に、極めて冷静な判断でもあります。

ここで言うそれは「大人は分かってくれない」とか青臭い類ではありません。道徳や公性、思いやりや情けなど、人としてあるべき姿勢を示す大人が極度に減り、その状況を「しょうがないもの」として受け止めそれをさも当然とする姿勢に対してです。

小津安二郎の世界的映画『東京物語』があります。老夫婦が広島から子供たちの住む東京に遊びに来るも、子供達は各自の生活に追われ中々構ってあげられない。そして帰郷した母が亡くなり、葬式に再び集うも…という話です。

この映画に対して自分は、映像的に美しくとも、その家族の姿には腹たださと、いたたまれ無さを覚えます。両親を構ってあげられず葬式で涙するも、仕事があるからと足早に実家を去る子供たち。決して悪気がある訳ではありません。母の死は悲しいけれど、次の日常へと対峙せねばならない。その状況を諦観的に受け入れる父。そして、兄達を人情無しと嘆く末妹の京子。その京子に対して、義理の姉紀子は「嫌だけど、大人になれば皆そうなるのよ」といったニュアンスで諭す。

自分はこの諦観とした情景を、頭では理解出来るが、決して頷く事は出来ないし、頷いてはいけないと思っています。

何よりこれは、都市近代化が産んだ光景であり、仕事と己の生活を理由に動くエゴの現れです。それ以前は「母親が死んで悲しむも、日が開けたら父を尻目に仕事を優先してそさくさと去る」ことなど無かったはず。そんな姿を諦観してしまう事も無かった。

悪気は無いけど、エゴを優先し情けが無意識に欠けてしまった大人。

自分の親戚にそのようなイタい者が多いので、昔から非道く痛感している事です。なので「自分だけでも決してそんな大人にはならない」と強く自戒しています。そんな大人の感覚と世界を、死ぬまで分かるつもりはありません。

子供の目は本気で世界を観る

アホみたいに泣きじゃくる議員と、「話題性があるから」と繰り返し報道するメディア。それを否応なく目にしてしまう子供。その影響力は絶するものです。悪影響とかそれ以前のもっと根本的な、大人への信頼度を限りなく下げることへ、間接的だが強烈に繋がります。結果、世の中がバカらしく見え何事もニヒルに捉えてしまう。これは極端な例ではありません。子供というのは、それほど周りを「本気で」観ます。

 

子供は純粋だ素晴らしい、などと言っているつもりは毛頭ありません。子供というのは基本的に無知で、時として愚かな事をします。が、その目というのは大人以上に冷徹で時に真実を写します。なので、大人の嘘と小賢しさを簡単に見破る。

逆に、善き大人の姿勢を示せば、その時理解できなくとも後になって絶対に思い出し言動に反映されます。それこそ本当の「大人になれば分かる」です。だから、子供を絶対にナメてはいけません。


繰り返しになりますが、子供の言動とは愚かで、時に「若さ故の過ち」(シャア・アズナブル、発言当時20歳)を重ねてゆくものです。が、自分はやはり世の中に対する子供の目というのは真実を写すレンズであり、それを死ぬまで持ち続けるのは大切なことだと信じます。そして、少しでも情けある見習える大人に成らなければならない、と強く思います。

 

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