静夏堂

個人的考えのまとめ。主に音楽や本や映画とかアートとかについて

子供と魔法

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人のありようについて思索する上で、子供について考えるようになりました。

ここで言うのは、子供の社会的立場などに関することではありません。その目線と感覚についてです。また、「子供」と「子ども」という表記の使い分けについて長らく議論されていますが、本稿では大人と対象になるよう子供と表記します。

 

まず皆さんに思い出して頂きたいのが、子供時代に味わった感覚についてです。まさしく「夢中」になりそれ以外眼中にはなく遊んでいたワクワク感や、未知のものに対する恐怖や好奇心。大人となった今では滅多に味わえない、だけど思い出すことは可能なあの感覚。

これは時代や場所に関係なく、全ての人が有する普遍的なものかと思います。同時に、何ものにも代えがたいその人固有のものでもある。

子供の感覚は純粋で素晴らしい、という言い方をするつもりはありません。純粋とは無知なことです。それゆえ悪意なき残酷性を有します。虫を殺して解体してしまったり、他人にちょっかいやいじわるをしてしまったり。これは全て好奇心の発散です。つまり残酷性とは、好奇心と地続きなのです。

 

この感覚のピークは、小学校に上がるか上がらないかの時かと思います。そして学校という親以外の大人から教育を受け他者を知り適応してゆく過程で、また成長というものと引き換えに、徐々に薄れてゆく。

これはノスタルジーの類とは違うものです。つまり、懐かしいとはあまり思わない。なのでその時と今がシンクロして大人になった自分にもその感覚が僅かながらも残っている、といえます。

ある程度成長しても、その感覚が現れた具体的な例を出します。まず、今こうして毎日使っているPCやネットに最初に触れた時。自分が初めてPCに触れた機種は親が所有していたWindow98搭載のNEC製デスクトップで、インターネットの世界を知ったのは小学校4年生の時でした。今から10年以上前の話でありますが、その時の感動は一生忘れないません。

次に、Youtubeニコニコ動画など動画サイトが登場した時の衝撃やそのワクワク。これは、皆さんの記憶にも新しいことでしょう。

 

この感覚を端に、カルチャーというのが生まれます。それ故、すべての表現者は子供の感覚を常人より保持しつつも、さらに求めようとする。キッズ・リターンならぬチャイルド・リターン。

ピカソの言葉だったと思いますが、あの絵柄を手にした時「やっと子供になれた」と語ったといいます。

 

子供の感覚をそのまま作品に昇華している表現者に、美術家の奈良美智と音楽家の竹村延和が挙げられます。両者の作品に触れると、「子供時代を思い出す」というより「自分の中のどこかと繋がっている」という気持ちになります。

竹村延和氏はコアな音楽ファン向けというイメージが強いですが、冒頭画像に使っている代表作『こどもと魔法』は音楽のおもちゃ箱といった感じで素晴らしく、一聴されるのをオススメします。(また氏のブログは厭世的で難解な内容が目立ちますが、その子供の感覚目線について深い考察が記されています。einsamkeit

■情報を制限する

繰り返しますが、この感覚は徐々に薄れてゆきます。そして「今や空っぽ」と感じる人も多いでしょう。ですが、死ぬまで消えることはありません。不感症といって良いほど無感動になってしまった自分でも、時たま呼び起こされます。

当然ながら、好奇心や発見出来る感覚は多ければ多いほど良いものです。あまりに毎日がつまらなく思ってしまう自分は楽しんで生きるため、この感覚を少しでも取り戻したいと思っています。

そのために、あえて「情報を制限する」という逆説的なことを実践しています。これは「知らぬが仏」とは違います。情報を無差別に大量に浴びることは、洪水に巻き込まれているのと同じで、泳ごうにも泳げず溺れてしまう。人間というのはそこまで情報処理に長けた生き物ではありません。結果、錯乱状態に陥り、感動や発見なんてのは程遠いものになってしまう。

なので「夢中になれない」とか「感動が出来ない」などと感じて退屈を覚えてしまう人は、この辺りを見直して良いかと思います。嫌なものばかり目についてしまう質の自分ですが、やはり世界というのは発見に満ちた楽しいものであると強く信じます。

 

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