静夏堂

個人的考えのまとめ。主に音楽や本や映画とかアートとかについて

退屈と仕事という刑

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間は自由という刑に処せられている、とは実存哲学の旗手サルトルの言葉として有名です。この命題、ちゃんと理解するには彼の思想を掘り下げてゆかねばならず、自分も不勉強で根本的には分かっていません。が、その文学的表現にはしっくり来るものがあり、言い得て妙だなと思います。

この言葉をもじると、「現代人は退屈と仕事という刑に処せられている」と言えるのでは無いでしょうか。

ISISイスラム国)に加入しようとした日本の若者が居ましたが、それほど騒ぐ事ではありません。単純に、退屈過ぎて非日常を味わいたいのと憂さ晴らしと、そして無知ゆえの一策なだけです。

そう、人間はあまりに退屈過ぎると非日常を極度に求めます。ドラマが欲しい、ハレを味わいたい。

その例として上記みたいに戦士になろうとしたり、デモに走ったりします。ちなみに自分は、デモというものに参加する者へ強い違和感を覚えます。デモの有用性というのは承知していますが、かつて小林よしのりが書いていた通り「手段としてのデモでは無く、デモそれ自体を目的」としている者が多いと感じてしまうからです。

またネット世界では「炎上という祭り」が常時あります。しかしその祭りとは、日頃の憂さ晴らしとしての古来からの機能は同じでも、豊穣を祈願するという要素、つまりポジティブなものでは決して無い。根底にあるのは「他人の不幸は蜜の味」、ネット用語でいう「メシウマ」という非常に不快な言葉のそれです。

自分はそんなネガティブなものに没入する気はありません。人間として駄目になってしまう事が目に見えているからです。

ですが、その非日常やハレを求める気持ちは十二分に理解出来ます。やはり日常が退屈だと感じてしまう事が多いからでしょう。

退屈というのは豊かさと引き換えに得る刑です。戦争中に退屈はありません。つまり、平和だという証拠です。

人はなぜ仕事をするのか?

日々の生活の糧を得るため、が1番大きな理由に挙げられるでしょう。ですが、それは「仕事」では無く「労働」です。ハンナ・アーレントが意味するそれに近いです。

では「労働しなくても良いほど暮らせる金」があったらどうするか?

十中八九「仕事」か「活動」をします。これはフォーブスに載るほどの長者達が、第一線を退いても何かしら活動したり新たな事業を興したりするのを見れば明らかでしょう。

もちろん、悠々自適な暮らしに長けた人も居ますが、何か手を付けていないと死んでしまいそうになる自分からしたら非常に羨ましく、一種の才能にさえ映ります。

 

改めて、人はなぜ仕事をするのか?

簡潔に言うと、「意識/無意識的に退屈を恐れているから」そして「自分が必要とされないのが怖いから」です。少なくとも自分の場合はそうです。仕事が無いなら死んだ方がマシとさえ思ってしまう。

もちろん、純粋に楽しいが為にやるのもありますが、ここで言うのはワークホリックのそれに近いです。

ワークホリック、仕事中毒という名の通り、これは麻薬であり呪いです。特に表現を売りにする者は、この呪いから一生解かれることはありません。それが天才であればあるほどで、例えば手塚治虫。彼の最後の言葉が「頼むから仕事をさせてくれ…」だったというのは有名な話です。

この場合、仕事が出来ないというのは自分が自分で無くなるのを意味し、つまりアイデンティティに関わってきます。

一方で、先の通り退屈と虚無が襲う面倒な世の中でもあります。卑近な事で言うと、「ぼぉ〜っとする」のが困難になってしまった。

例えば自分の場合、TVをぼぉ〜っと観ることが不可能になってしまいました。どんな番組を観ていても、どこか物足りなさを覚えジッとしていられない。食事時にチラッと目にするぐらいで1日30分も観ません。

TVがツマラくなったから、とよく言われますが違います。番組自体の質は10年前とそんなに変わらないし、むしろ洗練されている。なのに何故、ぼぉ〜観て居られないのか。

当然ながら、ネットが原因です。情報と娯楽を無限に得られるが故の功罪です。

動画に関して言えば、YouTubeニコニコ動画が2強で、数分のモノをパッパと観たりコメントが流れた方がしっくり来る身体になってしまった。楽しいモノはいつでもどこでも観られるし、ツマラナイものは簡単に消すことが出来ます。

自ら興味あるものを模索しチョイスしてゆくので一見能動的に映ります。が、それは視野狭窄がちになると同時に脳が錯乱する、という極めて質が悪い状態も生みます。

周囲に訊いてみるとやはり似た感じらしく、皆さんにも思い当たるフシがあるでしょう。

ただ、生まれた時からネットに晒されている生粋のデジタル・ネイティブな現代の子供達は、その処理に長けた人種と化すかも分かりません。

繰り返しますが、現代は退屈に耐えられない世の中です。粘膜を終始刺激させられ、それが止まると極度な虚脱が襲ってくるような。常に躁的多動性的であり、それが不足する極度な倦怠を反動として覚えてしまう。

そもそも退屈とは何なのか。Wikipediaの項を参照すると、古来から考察され定義が様々です。

退屈 - Wikipedia

とりあえず「何にもやる気が起きない興味が沸かない醒めきっている、そんな状態がイヤだ」で良いでしょう。

逆に、退屈を退屈として楽しめないものか?

フランスだけでなくヨーロッパにはバカンス文化があります。この言葉の本来の意味は「空っぽ」を意味し、文字通り「何もしない事を楽しむ」というのが本来のニュアンスだといいます。

それに比べて日本人は休みも取らず勤勉だと言われます。が、バカンスを楽しむ風土がある者からすれば、それはある種の皮肉というか憐憫ではないかという気がします。

ただ、そこでの勤勉とは近代化と平行して植え付けられたものかも知れません。つまり、ここ150年のもの。

自宅近くには、竪穴式住居跡があります。これは旧石器時代から平安あたりまでの庶民の家です。それを見る度に、当時の人は今よりぼぉ〜っと空でも眺めて居られたのでは無いか、と思ったりします。

やる事がほとんど無かったはずなのに、退屈しなかったのだろうか、したとしても今みたいに苦痛とはさして感じなかったはず。労働という概念は無く、日々の生活の一部として狩猟や農作をし苦境にも耐えられた、耐えざる得なかった。そして年に数回、日頃の苦を晴らすため祭りを興しハレを味わった。

その当時が羨ましいとは全く思いませんが、現代人より忍耐強かった、そして感性豊かであったのは確かです。

退屈に対する策は何があるでしょう。

忍耐をつける事としてパッと浮かぶものでは、瞑想をするか釣りかだと思います。あと錯乱的な情報を意識的に遮断するようにしたり。

また躁的なもので無く、もっと淡々とした退屈処理は何か。骨董を愛でるか庭いじりをするのが良いかもしれません。

そんな事出来たら良いなぁとか思いながら、自分はまた次の作業に移ります。

 

暇と退屈の倫理学

暇と退屈の倫理学

 

 ↑退屈論として昨今読まれている書です。退屈への対処法は高等遊民みたいになれ、といった感じでしっくり来ないのですが、各思想家の退屈論や鋭い見識があるのでオススメです。

 

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