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静夏堂

個人的考えのまとめ。主に音楽や本や映画とかアートとかについて

頭が良くなる ≠ 愛智

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ブログを開始してから、いつの間にやら1年が過ぎていました。

ありきたりな表現ですが、続けられて来たのも読者の皆様のおかげです。ありがとうございます。

今年に入ってからは事情が重なったり意欲低下したりとペースが落ちているのですが、あくまで「自発性=書きたいから書く」というのを優先しコツコツ続けてゆく次第です。

 

意欲低下、と書きましたがつまりスランプというのは何事にも起こるものです。仕事でも趣味でも。ですが、このようにモノを書き公開しているのは、自分にとってそのどちらでもありません。社会的意義といった高尚なものとも違う。

以前も記しましたが、「現時点の考えを、文章練習を兼ねてまとめておきたい」というのが大きな理由の1つです。あれこれ悩み考えが浮かんでは消えて、モヤモヤとし、頭の中でアイスクリームが溶け落ちてベタついたような気分になる自分みたいな人間にとっては、言語化し記録しておくのは良いものです。そんな意味でブログをやるというのは、修行的でありセラピー的なものだと言えます(どこか矛盾していますが)。

 

もちろん、公にし読んで下さる時間を頂く以上「何かしらプラスになるものを書かねば」というのは、常に念頭に置いています。その意識が時に強まり過ぎて書けなくなる事も多々あるのですが。

とりわけ自分の文体が変に畏まっている嫌いがあります。もっとフラットに書けば楽なのになーとか思ったりする事がしばしばなのですが、その点はTwitterに譲っています。ただそのTwitterとやらの場合、性質上どうしてもエゴ丸出しだったり極度に感情的なつぶやきをしてしまいがちです。所謂バカッターとされるものを、自分があまり非難出来ないのはここにあります。なので、起伏の激しい自分みたいな人間は本来やらない方が良い。が、パンドラの箱を開けてしまった以上仕方ありません。自制心を鍛えながら付き合ってゆきます。

この頃自分は、インプット強化というか、基本的知識の確認補強というのを意識するようになり実践しています。

何事も基礎があってこそです。基礎を意識しなくて良いのは天才だけです。

ことに論理力の点から数学はしっかり基礎固めをしなければと思い、潔く小学校の算数からやり直しています。自分は再三、人知の極限を描き出す勇ましくて美しい数学に恋してはフラれてきましたが、今回は高望みせず、一定の距離を保ちながら友情を育みたいと思っています。

なにをどう基礎固めすれば良いのかは、以下の書を参考にしています。

読書の技法 誰でも本物の知識が身につく熟読術・速読術「超」入門

読書の技法 誰でも本物の知識が身につく熟読術・速読術「超」入門

 

 今やベストセラー作家となっている元外交官佐藤優氏の読書術、勉強法について具体的に書かれています。

氏によれば「一定以上の知的教養水準を得る基礎固めには高校教科の範囲で十分であり、逆にそれが無いとどんなに高度な本を読んでもモノにならない」とのこと。センター試験の過去問等を利用して、現時点のレベルを客観視するのが有用だといいます。高校入試のでも良いでしょう。変なプライドなど捨てて、虚心坦懐に向かうのが最もスマートです。正しく「急がば回れ」。

さて、そんな知識思考武装化計画を実践中だからという訳でもないのですが、読書中に漠然と思うことがあります。それは「そもそも、人はなんで本なんか読んでいるのか?」といったもの。

これは非常に面倒臭い疑問であり、「そもそも何で勉強するのか?」とか「そもそも何で言葉なんか使ってるのか?」とか、もっと突き詰めると「そもそも、なんで生きてるんだろ…」といったものさえ現れてパニックになりそうです。だから自分はそもそも論が、そもそも好きではありません。

だけど、あえて理由提示するならば、自分の場合単純明快で「楽しむため」と応えます。楽しむためというか、楽しみを「増やすため」というか。

それと、上記のようにモヤモヤした連中ばっかが出席する脳内議会の中で「納得!」と判を出したい。そして、そこから得られたものを何らかのの形にして、誰かに伝えたい。これらが今の所、自分が読書勉強する理由としてしっくり来ます。

 

卑下自慢でなく、自分は地頭が良い方ではありません。その処理能力の鈍さには日々、壁に頭をガンガンと連打したくなる思いに駆られています。ですが、格別「頭が良くなりたい」とは思いません。いや勿論なれたらそりゃ良いだろうけれど、それが最重要でもないし目的でもない。それは漠然と「お金持ちになりたい」と思っているのと変わりません。

「頭が良くなる方法」系の啓発本が相変わらず氾濫していますが、そういったものを見る度に、違和感を覚えます。これらの類は「頭が良くなれば、幸せになれますよ!」というペテン師的思惑が内在しており、その口車に乗せられてインスタントな優越感に浸っている人を増やしているだけでないのか、という疑問を抱いてしまいます。

「知や勉強」と「頭が良くなる」に相関関係はあるでしょう。が、因果関係では決して無い。いい加減そこら辺の見極めが出来て良いんじゃ無いのか、と思います。

 

知の考古学者ミシェル・フーコーは「知識というのは、知ることの喜びに深く結びついている。知るのが楽しくて仕方ないと思わせるやり方があるのだ、というのを知ってほしい!」と言っています。

こういった言説は、古今東西の賢者達が繰り返し口にしています。〈哲学〉= philosophyがギリシャ語の「sophia(智)をphilein(愛する)」に由来する事からも見て取れるでしょう。ついでに言うと、〈哲学〉とか堅苦しい言葉なんてやめて〈愛智〉と訳し直した方が良いのではないでしょうか。

 

読書や知や教養云々については、また改めて記してゆきます。

 

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