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静夏堂

個人的考えのまとめ。主に音楽や本や映画とかアートとかについて

デモは手段に過ぎない ─ 国会前デモ見学記

備忘録

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前回の続きです。

さる7月15日、安保法案が強行採決され、それに反対するデモが国会議事堂前など各所で行われました。ちょうど自分は所用帰りに寄れる所に居たので、霞ヶ関駅で途中下車しその光景を「見学」して来ました。デモに「参加」したつもりは毛頭ありませんので、今後は報道されている抗議者の数を1引かれると良いでしょう。

 

はじめに断っておかねばならない事が2つあります。

1つは、自分はこの安保法案に対して「賛成/反対」のどちら側にも立てないということ。別に中立を気取っているわけでもなく、単に自分の知識力不足ゆえ、判断が未だ出来ていないのに過ぎません。ですが、馬鹿なりに勉強しておりますので、「日和るな!」と糾弾なされないことを願います。もっとも、庶民感覚として「本当に大丈夫なの?」とは思ったりはします。だからといって安易に反対も出来ませんが。


2つ目に、前回にも書いたよう自分は「デモ」というものに違和感を覚えてしまう人間です。その集団性と同調性や、バカの一つ覚えみたいに同じことを何度もコール&レスポンスする光景が、異様に感じてしまう。何より「デモを手段ではなく、目的としている者が多いのではないか?」という疑問が昔からあります。

もちろん、参加者の主張やその意義自体を否定しているわけではありません。むしろ尊重しています。

ともかく、あくまで個人的な印象なので悪しからず。

アル晴レタ日ノコト 魔法以上の…

「見殺しですか天皇陛下」という意味不明の文言を掲げた街宣トレーラーを、外務省から出てきた役人と思わしき人が一瞥しハンカチで汗を拭きながら駅に向かっていったのがまず印象的でした。このトレーラー、調べてみたらちょっと有名らしいですね、ネタとして。実に平和です。「現憲法下では天皇は政治に介入出来ないんですが、それは…」とマジになってはいけません。

 

さて、デモ参加者を眺めていて思ったのは、中年以上の人が多いということ。
「若者も多く参加した」と報道されていましたが、自分が見た限り、50代以上が60%で、40〜30代が25%、20代〜10代が15%といった感じです。

自分が足を運んだ時間帯は最も人が集中したであろう19時〜21時台で、すし詰め状態とはこのことかというほどギュウギュウでした。人の波に飲まれ身動きが取れず、わけも分からなく国会前まで進む自分。

太鼓がリズムをとり「戦!争!反!対!」「安!倍!は!辞!め!ろ〜!」と拡声器を使って叫ばれ、そのレスポンスが響く永田町。おお〜これがデモ・グルーヴか〜、とちょっと感慨深かったです。思えば、永田町というのは日本一「反対!」という言葉が響いた町なのです。

夏の暑さとは違った強烈な熱気が、予想通り感じられました。のぼせやすい人は簡単にトランス状態になるでしょう。というか、実際そうなっている人を多々目撃しました。夏フェス会場じゃないんだけどな、ここは。

一体みんな誰と戦っているんだ

自分が人混みから離れ、周囲を見回していた時のことです。シュプレヒコールの地響きの中、無表情で傍観している自分が気に食わなかったのでしょうか、全共闘世代と思わしきオジサンから「なんであなたは抗議しないんだ」とお小言をいただきました。

「なんでしなくてはならないんだ?」と言い返そうかと思いましたが、戦争は回避せねばならないので「見学してるんです」とニコやかに応えました。「あ、そう」と昭和天皇の口癖で立ち去るオジサン。ここで自分は運動に付随する「同調圧力」の片鱗を味わうことができ、大変勉強になりました。

 

とりあえず最前まで行ってみようと再び人波に飛び込み、1時間ぐらいかけて着いたのですが、そこはデモ隊の最前線。当然、報道記者や警察も他所より多く、ライトアップされた国会議事堂が超現実的に佇んでいて、かなり異様な光景でした。

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通常なら国会前を横断できるのですが、この日は混乱を避けるため封鎖されていました。なので1960年の安保闘争のように包囲は不可能です。

そんな状況に苛立っていたのか、警察に罵詈雑言を吐きちょっとした揉め事を起こす参加者も。その光景を目にして浮かんだ言葉はもちろん「一体みんな誰と戦っているんだ?」。

体制側だったらとりあえず敵なのでしょうか。

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それと、蒸し暑いなか将棋倒しにもなりかねない所に小さい子供を連れて来ている親も居て、その神経を疑いました。「子供たちを戦場に行かせない!」と叫ぶわりには、えらく危険な所に連れて来ているじゃないですか。

 

もっとも、ほとんどの参加者は常識人であり、身体が不自由な人が居たらぎゅうぎゅう詰めでも即座に道を開けたりするなど、配慮ある行動も目立ちました。

誰も居ない皇居前広場

水分不足に陥り、熱中症寸前だった自分はそさくさと抜け出し、どこかで涼もうとふらふらと皇居前広場の方へ向かいました。

「来てよかった。家でジッとしているよりマシよね」みたいな事を口にしながら駅に向かう人々と、タイムを気にしながら一心不乱に走るランナー達がすれ違う光景が印象的でした。

皇居前に近づくにつれ人気が無くなり、二重橋前に着くとそこには皇宮護衛官と自分しか居ない状況。デモの下品な轟音がここまで聞こえ、護衛官の無線には各所の状況が慌ただしく入って来ます。それでも静寂さに包まれたこの地は、俗世と隔たれた別世界でした。振り返ると高層ビルが立ち並び、その異世界感に拍車をかけます。

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頭がクラクラするなか自分は、1945年8月15日に「宮城事件」という玉音放送を阻止しようとしたが失敗し、この二重橋前で自決した2人の軍人のことをふと思い浮かべました。(ちなみにこの事件については、戦争映画の名監督・岡本喜八による『日本のいちばん長い日』(1967年)に描かれています)

デモは手段に過ぎない

とまあこんな感じだったのですが、足を運んで良かったな、とデモ参加者とは違った意味で思います。やはり現場に出向き生で見聞きするのは一級資料となり、大変勉強になります。

「国家前で騒いで何になるんだ」とニヒルに構える人もいますが、自分はそうは思いません。むしろ、有意義です。少なくともネット上で暴言を吐き散らかしているよりは数百倍価値があります。

なので今後も、立法権に対する「いち国民の声」を表明する「手段」として続けて欲しいと思います。そして、もし「目的(今回の場合は廃案)」が達成されたら、さっさと日常に戻ることを肝に銘じた上で。

繰り返しますが、デモや運動といったのは手段に過ぎず、目的ではありません。が、これを取り違えてしまう事が多々あるのです。つまり、デモそれ自体を目的化、ひいては生き甲斐としてしまったりする。それこそ「単に騒ぎたいだけのバカ」に陥ってしまいます。その結果「血に飢えた平和主義者」と化した例が歴史上どれほどいたことか。

 

今回のデモでも、演説やシュプレヒコールで、ネトウヨヘイトスピーチと変わらない耳を塞ぎたくなる暴言が口にされる事が中にはありました。「戦争反対」を主張するわりには随分好戦的で、サイヤ人かなと思いました。

左右関係無く、このように「血に飢えた」運動家が一番やっかいです。彼らは公のためにやっている意識があるかもしれませんが、深入りするとそれはエゴの肥大化であり自涜に過ぎません。

また主張を聞く際、「私」なのか「我々」なのか主語に注意した方が良いです。一人称が複数主格になると、徐々に全体主義的様相を醸し出します。これは歴史上の独裁者が演説で必ず使った技であり、今後も使われる人心掌握術です。

これにかかると大衆は思考停止に陥り、愚民と化します。なぜなら自分で考えないから。

政治に入り込むとバカになりそう、という自分の直感はこの辺りに起因しているのかもしれません。

 

いずれにせよ、「とりあえず戦争に関連するとか反対の声が多いから、反対!」と多数派と情にかられて安易に判断するのは危険です。当然、その逆もまた然り。

「こうでこうでこうなる、だから私はこの法案に反対なんだ」というぐらい自律的に考られて始めて積極的にデモに参加できるのでは無いでしょうか。

そしてそこでも、反対論に固執せず賛成派の意見にも耳を傾け議論するなど、さらに思考を深め、落とし所を探るのが大切だと「自分は」思います。

大衆の反逆 (ちくま学芸文庫)

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大衆への反逆 (文春学藝ライブラリー)

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