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静夏堂

個人的考えのまとめ。主に音楽や本や映画とかアートとかについて

すべての男は一人ぼっちである―ぼっち哲学論考

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一人ぼっちのことを「ぼっち」と称し、ここまで広まるようになったのはいつからでしょう。

日常生活だけでなく、ハロウィンやクリスマスなどのイベントごとに、強烈な疎外感と孤立感を味わって、いつしかそれを自虐的に嘆き合う、というのはネット・SNS大普及以降の現象かと思われます。

「ぼっち」的な人物を主人公にした作品が昨今多く見られ、また受けるのは、このためでしょう。

つまり、ぼっちは増加傾向にある。

 

ですが、当然のことながら「ぼっち」というのは昔から存在していました。

藤子不二雄Aの『ブレーキふまずにアクセルふんじゃった』というブラックユーモア短編には、「休日なのに恋人どころか遊ぶ相手もいない惨めな自分を嘆く」という主人公が登場します。これは1970年(昭和45年)発表の作品ですが、現代の読者もこの主人公にシンパシーを抱くはずです。

もっと遡れば、詩人の萩原朔太郎は、孤独感を主題にした作品を多く発表しました。『僕の孤独癖について』というエッセイまで発表しているほどです。

19世紀中盤のロシアでドストエフスキーは、社会と遮断し地下室にひきこもる主人公を『地下室の手記』に描きました。もはやぼっちどころではありません。引きこもりです。

極めつけは、ジャン=ジャック・ルソー。フランス革命だけではなく現代社会の生みの親の一人たる天才の絶筆は、その名も『孤独な散歩者の夢想』。この晩年のルソーは家内と暮らしていたわけで、傍からから見れば「ぼっちじゃないじゃん」となるわけですが、それでも本人は真剣に「孤独で辛いわ……」と嘆きながらこれまでを回想しては散歩し執筆し、息絶えます。

 

いずれにせよ、数百年前だろうが数千年前だろうが、「ぼっち」的な人間が存在したのは間違いありません。ここで言う「ぼっち」とは、その「現象」というよりも、内に秘める「性質・気質」のことを指します。

現象としての「ぼっち」が発生したのは、農耕社会に移ってからでしょうが、狩猟採集の時代にも「なんか孤独で辛いわ…」と嘆いていた我々の先祖もいたはずです。もしかしたら洞窟で暮らしていた頃からも。

非社会的動物・男

さて、「ぼっち率」なる統計を取ったら、圧倒的に男性が多いと思われます。
というのは、男というのは「非社会的な面」を多く持っている生き物だからです。

 

たとえば、女性と比べたら男性はお喋りではありません。

英語圏の研究になりますが、女性が1日に2万語喋るのに対し、男性は7000語と3倍の開きがあったそうです。

日常生活でも「無口の男性は多い」というのを実感されているでしょう。

 

また、女性は「ねー」「わかるー」と共感を示す言葉を(表向きながらも)多く発します。

対して男性は、適当に相槌を打って終わりです。無言の状態が長く続くこともあります。

 

言葉だけでなく、行動にもそれは現れます。

男性諸氏は、「授業中に手紙回しをしている女子たちを、怪訝に眺めていた頃」を思い返してください。

個人的に、あの謎の行動こそ女子オブ女子で、あまりにフェミニン過ぎて鳥肌が立ってしまうこともありました。

ですが今にして考えると、あれこそ女性の「社会的動物性」を現す顕著な例なのです。

授業中という私語厳禁で閉鎖的な空間の中、手紙という原始的な行動を取ってまで他者とコミュニケートするパワーは、男にはありません。

それとトイレに一緒に行ったりとか。

男子も「ついでに一緒に行く」ということはありますが、女子のようにサロンとは化しません。

 

他にも、ファッションに拘る、というのが挙げられます。

男性もある時期を迎えたらオシャレに気を配りますが、それは一時的なものに過ぎません。
つまり「女にモテるため」格好をつけるのです。

ですが、女性は違います。

もちろん「男にモテるため」というのも大きいわけですが、それは付随的なものです。作家の中村うさぎも書いていましたが、その本質は「自己満足と同姓たる女性への承認と願望を得るために装飾する」わけです。

 

男性のオシャレは一時的なもの、と書きましたが、周囲の年上の男性を見ればお分かりでしょう。

結婚し子供もできれば容姿なんかに金をかけている余裕はない、という経済的な面もあります。が、それとは別の意味でファッションに無頓着になってゆきます。

対して女性は「死ぬまで乙女」なので、オシャレをし続けます。そしてこれは社交性と密に関わってきます。

女性の場合、たとえば子育てを終え時間的に余裕が出来た頃、犬でも飼って「お喋りをするために」ドッグランに集ったり、テニスを始めたりします。

目的は、自分と似た境遇の同姓と交流するため。その意味で、犬を散歩させることも、テニスをすることも手段でしかありません。

 

対して男性は往々にして友人が消えてゆきます。新たな友人を作ろうという気力も起きない。なので、いつの間にか「ぼっち」と化している。

その時、拠り所となるのは一人遊びができる「趣味」です。

おじいさんが盆栽いじりをするのは、この辺りに起因するのでしょう。ガーデニングをするおばあさんはいても、盆栽をする姿はお目にかかったことがありません。

 

もちろん中には、おしゃべりが好きで、社交性に優れた男性もいることにはいます。が、女性のその熱量とはベクトルが違うように思えます。

日本において、男性と女性の平均寿命を比較した場合、男性80歳、女性87歳と顕著に差があり、それもこの社交性の有無が関わっているのでしょう。

 

ちなみに個人的な話となりますが、うちの父親が定年した後、庭で盆栽をいじり、ジャージを着て近所を散歩して1日が終わる、というのが容易に想像できます。そして旧友らと年に1,2回ほど飲み会をし、誰々の訃報を話題の種にしみじみと思い出話をする……

まあ別に良いんですけどね。ただ、自分も数十年後にこうなる要素が大いにあり、出来れば別方向に行きたいな、と思ったりもします。まあ難しいでしょうけれど。

自意識過剰型ぼっち

 男女の差異を見ながら、男性が宿命的に「ぼっち性」を有していることを書きました。

ですが、女性は女性なりの「ぼっち」があるでしょう。また、上記にあるものと現代で使われている「ぼっち」とはニュアンスが多少異る部分もあります。

 

私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』(ワタモテ)というマンガがあります。主人公で女子高生の「もこっち」こと黒木智子は、現代的な「ぼっち」です。ただ原作が男性というのもあって、「男性的なぼっち性」が強いのです。

なのでリアル女子ぼっち/喪女の方々からは評判は得られず、このマンガが流行りだした頃「こんなにかわいくねーよ。こんな感じでもっと不細工なんだよ」と自虐的に「リアル喪女」が描かれたことがありました。

まあそれは置いておくとして、もこっちみたいな人間は「自意識過剰型ぼっち」と分類して良いでしょう。

「自分ぼっちだわ……」とマイナス方面で気になるのは、このタイプです。

教室でも職場でもどこでも良いのですが、集団の中で「孤立/孤独感」を異様に気にしてしまう。集団でなく部屋で1人いても、たとえばクリスマスなんかがあったら、騒いでいる連中が妬ましく思える。さらに質が悪いことに、こうったタイプは他人を見下す傾向にあります。それだから「ぼっち」になるのか、「ぼっち」だからそうなるのか。

ちなみに、自分は明らかにこのタイプに当てはまります。

開き直り型ぼっち

最近、こういうタイプが増えているような気がします。「オレ、ぼっちだし」と周囲に公言するのをはばからず、恥ずかしく思っていない。つまり、開き直っている。

キャラで言うと、『物語シリーズ』の阿良々木暦や、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』の比企谷八幡が筆頭でしょう。

阿良々木暦いわく「人間強度が下がるから、友達はいらない(作れない)」、比企谷八幡いわく「ぼっちは平和主義者。無抵抗以前に無接触。超ガンジー」。

ですが、彼らの周りには(癖があるものの)美少女が取り囲み、それなりの学園生活を送っています。

フィクションなのだから当然なのですが、それをメインの受け手たる若年層が読んだり観たりすると、彼らの言動に影響されないわけがありません。

自分には中高生のイトコがいるのですが、彼ら彼女らの話を聞くに、「こういう奴いるいる」とのことで、何というか、時代の移り変わりを感じました。

 

かつては『ハルヒ』のキョン・タイプが主流であったと思います。

キョンは歳のわりには醒めており俯瞰的な物言いと考え方をします。ですが、別にぼっちではありません。

むしろぼっちなのは、涼宮ハルヒの方です。それに振り回されるのがキョン役回りです。

そんな物語を、不幸にも多感な時期に触れてしまい憧れてしまった彼ら彼女らは、キョン的思考をこじらせて虚無的になってゆきます。

そして、いつしかこう悟ります。
「幻想だったんだ……」と。

前述の『ワタモテ』ではこの辺りの心情を非常に上手く表しています。

 

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叶わなかった約束が、腰を降ろす頃に

ぼっちについて書くと、「コミュ症」やら「リア充」といったさらに面倒くさい領域に突入せざるを得なくなってしまうので、このあたりにします。

 

最後に、「ぼっち辛いわ……」という人のために付け足しておきましょう。

上記で分類した「自意識過剰型」すなわち「もこっちタイプ」よりも、「開き直り型」の方が、まだ健全だと思います。なので、もこっち的な人はそっちへ移行する努力をした方が良いです。

この時、粋がって古典的な本を読まない方が身のためです。

ニーチェなどを誤って手にし「オレ超人かも」という思い込みが憑いてしまうと、さらなる不幸に見舞われます。ニーチェあたりの書物は、それまでの系譜文脈を把握しておかないと毒になってしまいますから。

とりあえず、カフカあたりが無難ではないでしょうか。

 

そして個人的には、真島昌利の詩を味わって欲しいところです。

マーシーこと真島昌利は、超絶イケメンでギターも歌も上手いのに、完全に「ぼっち的性質」が備わった人です。ロックにも甲本ヒロトという相方(というより嫁)にも出会わなかったら、どうなっていたのか。

ですが(いやだからこそ)、その詩的世界はもうこの上なく素晴らしい。

文学史的には、萩原朔太郎梶井基次郎といった「ぼっち文学」の系譜に刻まれる詩人とさえ言えます。ここまで美しい詩を書き、歌っている人を自分は他に知りません。

過ぎていく時間の中で ピーターパンにもなれずに

一人ぼっちがこわいから ハンパに成長してきた

なんだかとっても苦しいよ 一人ぼっちでかまわない

キリストを殺したものは そんな僕の罪のせいだ

 

『チェインギャング』

クリスマス・イブの夜にカラオケで1人この『チェインギャング』なんか歌うのは、かけがえのない体験になるのではないでしょうか。モニターの前で「死ね!」と叫んでいるよりは遥かに健全です。

 

爆発衝動が落ち着いてきたら、4枚のソロ作品を聴いて欲しいです。

曲で言えば『関係ねえよパワー』や『HAPPY SONG』あたりが良いと思います。

昼間っからヨッパらって あいつがやって来る

世間体なんてまるで 気にしちゃいない

どんな生き方をしようが それでいいのだ

お楽しみはまだまだ これからじゃないか

 

『HAPPY SONG』

 

……やはり、真島昌利は我々が目指すべき「理想のぼっち像」かな、と書いていて思いました。

「トーフにぶつかって死んじまえ」と叫ぶことも「ガリレオ・ガリレイみたいに鼻で笑う」こともあるけど、「まあ最終的には、楽しかったら良いんじゃん」という感じ。

もちろんその境地に達することは難しいものですが、目指す価値はあると思います。

 

RAW LIFE-Revisited-

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人にはそれぞれ事情がある

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